令和万葉集:新元号の令和は万葉集から

新元号が発表されました。「令和」という元号は、万葉集から、
とったものということです。
新春の令月にして気淑く風和らぎ、梅は鏡前の粉を開き、
蘭ははい後の香を薫らすという出典から
取られました。大伴旅人の和歌です。

万葉集巻第五 815~
梅花(うめのはな)の歌三十二首并せて序

天平二年正月十三日に、
大宰師の大伴旅人の邸宅に集まって、
宴会を開きます。
初春の、空気はよく風は爽やかに、
梅は鏡の前の美女が、
装う白粉のように開いて、
蘭は身を飾った香のように薫っています。

それだけでなく
明け方の嶺には雲が移り動き、
松は薄絹のような雲を掛けて
きぬがさを傾け、
山のくぼみには霧がわだかまり、
鳥は薄霧に封じ込められて
林に迷っています。
庭には蝶が舞い、
空には年を越した雁が帰ろうと飛んでいます。

ここに天をきぬがさとし、
地にとして、膝を近づけ酒を交わし
人々は言葉を一室の裏に忘れ、
胸襟を煙霞の外に開いて、
淡然と自らの心のままに振る舞い、
快くそれぞれがら満ち足りています。

これを文筆にするのでなければ、
どのようにして心を表現したら良いのでしょう。
中国にも多くの落梅の詩があるのですから
いにしへと現在と何の違いがあるのでしょう。
庭園の梅を詠んで和歌を作ろうではないですか。

この漢詩風の一文は、
梅花の歌三十二首の前につけられた序で、
書き手は不明ですが
おそらくは山上憶良(やまのうへのおくら)
の作かと思われます。


その内容によると、天平二年正月十三日に
大宰府の大伴旅人の邸宅で
梅の花を愛でる宴が催されたとあります。
このころ梅は大陸からもたらされたものとして
非常に珍しい植物だったようですね。当時、

大宰府は外国との交流の窓口でもあったので
このような国内に無い植物や新しい文化が
いち早く持ち込まれる場所でもありました。

この序では、前半でそんな外来の梅を愛でる宴での
梅の華やかな様子を記し、ついで
梅を取り巻く周囲の景色を描写し、
一座の人々の和やかな様を伝えています。
そして、中国にも多くの落梅の詩があるように、
「この庭の梅を歌に詠もうではないか」と、序を結んでいます。


この後つづく三十二首の歌は、
座の人々が四群に分かれて八首ずつ順に
詠んだものであり、各々円座で回し詠みしたものとなっています。

大伴旅人が太宰府を去ることになって、
その別れを偲んだ、万葉時代の旅だの和歌につけた
曲です。「から人の衣染むといふ」
https://youtu.be/VnnFo4PgjQo
という曲を以前作りましたが、

新元号に万葉集の言葉が生かされて
喜びもひとしおです。

令和万葉集:恋のいろいろ:大伴田主と石川女郎の場合

クールな美男子、大伴田主(おおとものたぬし)に恋をした

石川女郎(いしかわのいつらめ)は同棲したいと思っていた

のですが、なかなか進展しません。そこで、一計をめぐらせて、

なんと、老女に変装、土鍋をさげて、田主の家に。

「卑しいものが火を貸してほしいと来ました」

と玄関の戸をたたきました。

ところが当の家主、女郎の変装にはまったく気づかず、

火を貸して返してしまったのです。夜が開けてから、女郎は、

恋の仲介人なしに押し掛けてしまったことを恥ずかしく思い、

また願いがはたせなかったことを恨めしく思って作った歌です。

 

遊士(みやびを)と われは聞けるを 屋戸貸さず われを還せり おその風流士(みやびを)

「風流な人だと聞いていたのに せっかく来たのに私を泊めずに返してしまった。

鈍い『みやびお』もあったものね。」(石川女郎)

 

それに対して、田主の返歌といったら、

遊士(みやびを)を 我はありけり 屋戸貸さず 帰しし我を 風流士(みやびを)にはある

「泊めずに返した私こそ 「みやびお」だと思うがね。」(大伴田主)

この当時、恋の和歌はどのように伝えられたのでしょう。

恋の和歌をとりもったのは玉梓(たまづさ)の使いです。

一目を忍びながら、二人の間を行き来して、恋を実らせた

のは彼らなのです。時には恋の相談役になってくれたり、

気持ちを慰めてくれる役でもあります。石川女郎はそんな

使いがいなかったからでしょうか。使いを通さずに、直接に

自分から押し掛けるという行動に出たのです。それにしても

大胆な女性ですね。

令和万葉集:恋のいろいろ:恋多き万葉歌人、坂上郎女ストーリー

万葉女子は恋の達人。

恋多き万葉歌人、坂上郎女のストーリーの続きです。

 

その後、坂上郎女は年老いた異母兄の大伴駿河麻呂に嫁ぎます。

駿河麻呂との間に生まれたふたりの娘、坂上大嬢と二嬢の娘二人は

坂上の屋敷で育ちました。父の田村の家には母の違う姉妹が暮らしていて、

異母姉妹が会う機会は少なかったのですが、暖かな交流は続いたようです。

大伴駿河麻呂が亡くなった後も坂上郎女は多くの男たちと愛の和歌の

やりとりをしました。万葉集には、そんな郎女が折々に歌った恋の歌があります。

 

われのみぞ 君には恋ふる わが背子が 恋ふとふことは 言の慰ぞ 656

恋をしているのは私だけ。あなたは言葉だけでしょ。」

 

恋ひ恋ひて 逢えるときだに 愛しき 言尽くしてよ 長くと思うはば661

 

「逢いたくて逢いたくてやと逢えたこの時だけでも、

優しいことばをちゃんと聞かせてよ。この恋を長く続けようと思うなら。」

 

 

令和万葉集:家にありし櫃に鍵さし おさめてし 恋の奴のつかみかかりて

恋多き、万葉女性、大伴坂上郎女の人生、特に前半生は

ドラマチックでした。10代で結婚しましたが、お相手の

例の穂積皇子。モテる穂積親王でしたが、すでに40歳を

こえてさすがに歳を感じながら、大伴坂上郎女を寵愛します。

そんな和歌が宴会の余興で歌ったものとして残されています。

 

家にありし櫃に鍵さし おさめてし 恋の奴のつかみかかりて(穂積皇子)

3816いへにありし ひつにかぎさし おさめてし こいのやっこの つかみかかりて

「家にある櫃に鍵をかけて ちゃんとしまいこんでおいたはずなのに、

あの恋の奴めが、しつこくまたまたつかみかかりおって…。」

 

しかし、郎女と結婚して1年で、穂積皇子は亡くなってしまいます。

郎女は、実家の近くの坂上の地に移り住みました。

しばらくして藤原不比等の四男である藤原麻呂の恋人となります。

藤原麻呂は左右京大夫 (現在の知事) 忙しい仕事の合間をぬって、

夜になると坂上の屋敷を訪れたましたが、麻呂の足が遠のくとともに、

二人の関係も自然に解消されてしまいました。

 

来むといふも 来ぬ時あるを 来じといふを 来むとは待たじ 来じといふものを527

こむというも こぬときあるを こじといふを こむとはまたじ こじというものを

「来るといっても来ないんだから、来ないといったら来るのかしら。

でも、あてにはしないわ。だってあなたは来ないと言ったのだから」

(続く)

令和万葉集:百年に 老舌出でて よよむとも 吾がいとはじ 戀はますとも

三十代の紀女郎と二十代の若き大伴家持、かなり年の差の

あるカップルでした。しかも女性の方が十歳も年上ということを

気にしていたようでもあります。

 

百年に 老舌出でて よよむとも 吾がいとはじ 戀はますとも

ももとせに おいじだいでて よよむとも われはいとはじ こいはますとも

「あなたが百歳になって 舌を垂らしたよぼよぼのおばあさんになっても

嫌になんかならないよ。戀の思いが増すことはあっても。」(大伴家持)

 

 

 

まだ若い家持が、退廃的なデカダンスの香りを漂わせた歌を

おくります。おまえ百までわしゃ九十九まで、官能的にともに

命はてるまで、愛し合いましょうと言っている家持ですが、

いろいろな女性に目うつりしつつも、関係は続きます。が、

結局はまた坂上大嬢と結ばれたりするわけですから、

紀女郎にそんなに逢えるわけでもありません。

 

言出しは 誰が言にあるか 小山田の 苗代水の 中よどにして

776ことでしは たがことにあるか をやまだの なはしろみずの なかよどにして

「あなたが先に言い出したんじゃないの。それなのに

山田の苗代の水のように途中で淀んだりするなんて!」(紀女郎)

令和万葉集:万葉カップル 恋のいろいろ:大伴家持と紀女郎の場合

万葉カップルの恋のやりとりは、情熱的で、ウイットに富んで、

ユーモアにあふれ、時にはドスがきいて…ま

ずは、若き日の大伴家持と紀女郎(きのいらつめ)の恋の駆け引き

をご紹介しましょう。紀女郎は、たわむれに家持を「しもべ」と

いう意味の「戯奴(わけ)」と呼んでいます。家持もその芝居に

楽しくのっかっています。

 

戯奴(わけ)がため 我が手も須磨に 春の野に 抜ける茅花を をして肥えませ

1460「家持君のために 一生懸命引き抜いて来た茅花よ。

どうぞ召し上がって 太って(もっと健康になって)くださいな。」(紀女郎)

我が君に 戯奴は肥ふらし 賜り(たばり)足る 茅花を食めど 

いら痩せに痩す

1461「我がご主人に 私めが恋焦がれているからでしょうか。い

ただいた茅花を食べましたが太るどころかやせる一方です。」(大伴家持)

 

太る痩せるは現代のように古代も人々の関心のある話題のようですが、

当時は痩せている方が問題だったようです。

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令和万葉集:万葉人と夢

今日では、夢そのものは、脳の働きとして、深層心理の

現れであったり、記憶の整理、あるいは、意識としては

忘れたいことが現れたりするというように考えるのが

普通ですが、夢は自分の中からではなく、テレパシーの

ように外から来るものと万葉人は考えていたようです。

 

吾妹子が いかに思へか ぬばたまの 一夜も落ちず 夢にし身ゆる3647

「わが妻がどのように思っているからなのか、一夜もかかすことなく夢に現れる。」

 

万葉人は、強く思っている相手の夢には現れることができると

考えていたようです。言ってみれば、現代の私たちには考えられないほど、

夢は魔法の力を持っていたとも言えます。

 

中世の文学にも登場する 奈良の長谷寺十一面観世音菩薩

 

 

相思はずは 君にはあるらし ぬばたまの 夢にも見えず

祈誓(うけひ)て寝れど 2589

「あなたは私のことを思ってはいないのね。 祈誓をして寝ても夢にあらわれないなんて」

 

祈誓(うけい)というのは、神に誓いをたてて寝ることで、

夢の中で答えがえられるというものですが、うまくいかないこともあったわけです。

 

袖を折り返して寝ると夢で思う人に逢える、というおまじないもありました。

吾妹子に 恋ひてすべなみ 白栲の 袖返ししは 夢に見えきや 2812

 

2812 「いとしいあの子がが恋しくてたまらないので、

袖口をおりかえして寝たけれども、夢に私は現れただろうか。」

 

袖を折り返して寝ると、恋する相手が夢にあらわれると

信じられていました。自分が見た夢は相手も同時に

見るものも考えられていたのです。

令和万葉集:万葉人の恋と夢「赤い紐で結ばれた二人」

旅の夜の 久しくなれば さ丹つらふ 紐解き放けず 恋ふるこのころ 3144

「旅の夜を重ねることも久しくなったので、赤く美しい紐を

解き放つこともせず、恋しく思うこのごろです」

 

「赤い糸で結ばれた二人」とは、今もわたしたちがごく

普通に使う表現ですが、万葉人にとっても、男女のいわゆる

魂結びに関係して赤い紐が用いられました。別れに際し、

互いに固く結び、再会まで解かないのが原則でした。

水浴びするときなど、そのまま入ったのかどうか、定かでは

ないのですが。もちろん「妻の赤く美しい紐を解き放すことがなく」

という解釈もあるのですが、こうした男女が赤い紐に魂を結ぶと

いう風習があったならば、素敵なことですね。

 

 

吾妹子し 吾を偲ふらし 草枕 旅のまろ寝に 下紐解けぬ 3145

「いとしいあの子が私を思っているらしい。

草を枕に着衣の紐も解かず寝たはずなのに、下紐が自然に解けたことだ。」

 

恋人や離れた妻が強く思っていると、自然に男の下紐が解ける

と考えられていました。また、下紐が解けるのは、恋人が来訪する

予兆とも考えられました。まるで、強く望んだり、相手に逢おうと

夢みること自体が、呪力性を持ってそうした現象を引き起こすと

信じられていたようです。

令和万葉集:万葉人が信じていた、ユニークな恋のジンクス

万葉人が信じていた、ユニークな恋のジンクスを

ご紹介しましょう。

何だか眉がむずがゆい、くしゃみがでそうなのは、

現代人なら風邪や花粉症のせいだと思ってしまうで

しょうが、万葉人は恋人に逢える兆候だと思っていました。

衣服の紐が自然にほどけるのも、また相手が自分を

思ってくれている印だったのです。

(男の歌)


眉根痒き 鼻ひ紐解け 待てりやも いつも見むかと 恋ひ来し我を

「眉を掻いて、くしゃみをして紐をほどいて待っていてくれたんですか。

あなたのことのことばかり思っている僕のことを」

(女の歌)

今日なれば 鼻ひ鼻ひし 眉痒み 思ひしことは 君にしありけり

2809「たしかに今日はクシャミも出るし、眉も痒くてたまらなかったわ、

それはあなたのせいだったのね。」

この2首の男女の恋のやりとりは、柿本人麻呂歌集として2408番に載る

類歌を用いたものです。

 

くしゃみをするのは人が自分を思う兆し、というジンクスに基づき歌った和歌をもう一首。

うちはなひ 鼻をぞひつる 剣大刀 身に添う妹し 思ひけらしも 2637「くしゃんと、くしゃみをした。腰に帯びる剣の太刀のように、いつも我が身に寄り添う妻が、今僕のことを思っているらしいよ。」

相手が自分のことを思ってくれているか、今夜はきてくれるのか、恋は不安で、つらくて、切なくて。そんな気持ちは今も昔も変わらないですね。

令和万葉集:筑波嶺の 新桑繭の 衣はあれど 君が御衣し あやに着欲しも

筑波嶺の 新桑繭の 衣はあれど 君が御衣し あやに着欲しも

3350つくばねの にひぐはまよの きぬはあれど きみがみけしし あやにきほしも

 

筑波嶺一帯の、新しく出た桑の葉で育った蚕からとれる質の

良い糸で織った上等の衣もすばらしいにはちがいないが、

それよりも、あなたの着たその衣こそ無性に着てみたい

 

蚕には春蚕と夏蚕があるですが、新桑繭とは、春蚕、

つまり春に新しく芽生えた桑の葉を食べて育った蚕が

つくる繭で、夏蚕よりはるかに上等、最高の衣ができる

とされました。そんな上等の衣もあるのですが、あなたの

衣が着たいとは、相手の衣を敷いて共寝する、つまり愛を

受けたいという女性の歌で、新婚の儀式の歌だったとも

考えられています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また、筑波嶺一帯では養蚕が既に盛んに行なわれていて、

絹を税として納めていた当時の生活様式がよくわかる歌です。

常陸の国の歌です。

 

筑波嶺に 雪かも降らる 否をかも 愛しき子ろが 布干さるかも 3351

つくばねに ゆきかもふらる いなをかも いとしきころが にのほさるかも

 

筑波嶺一帯に雪が降っているのかな、

いや違うのかな、

いとしいあの子が布を干しているのかなあ

 

筑波山一帯に雪が降ったのかなあと思われるほど白布が干してある、

そういった美しい光景を見て感動して詠んだ歌で、

布の生産を言祝ぎ、布の多産を祈る歌です。