江戸と川越を結ぶ舟運の歴史

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現在の蔵の街川越と言われる商都川越ですが、江戸時代、それを支えたのは、舟運です。

ベニスのゴンドラのように、私たちの祖先も、舟で移動したり荷物を運んでいたのですね。

「船は千来る万来る中でわしの待つ船まだ来ない」川越舟歌からの一節です。

徳川幕府3代将軍家光が将軍の時、右腕として活躍した幕府の筆頭家老であった伊豆守信綱が正式に開いたのが1647年。そして、昭和6年、1931年に通船停止命令が出てるまで、285年間、この新河岸川舟運は、続きました。いわゆる正式の川越と江戸東京を結ぶ交通機関として活躍したのです。

しかし、桜でにぎわう、今の北公民館や氷川様の裏、仙波河岸に近いこの写真の場所は船が通っていた訳ではありません。ここから一番近いのが扇河岸で、舟運の終点なのですが、そこから鳥頭坂を上がって、荷物運ぶのに大変なことだったので、引込み船的な役割を仙波河岸が、持っていたんではないかと言われています。

江戸へむかう新河岸川が流れは、現在の和光市の新倉というところで荒川と合流して、蛇行して千住から隅田川に入り、浅草寺のそばにある花川戸橋まで下ってきました。実際には、花川戸からさらに下って、現在の日本橋あたりへ。そこに魚市場があっって、非常に栄えていたのです。3代将軍の頃には日本橋界隈はとても賑やかになってました。伊豆守信綱が、正式に舟運を開いて、285年間、江戸と川越を結んだ船が毎日行き来し、今日の江戸の文化は明日には川越に入ってくるというくらい江戸の文化を川越が取り入れることができたのです。

「舟は出て行く 十六舟が 今度来る日は いつだやら」

5日に1回舟が出たので、十六(いちろく)とは1の日と6の日に舟が出る十六舟。その他に二七舟、三八舟、四九舟、五十舟がありました。舟の値段表には、荷物1台と、人の値段が一緒。また早船という、人を乗せる専用として作った特急のような舟もありました。

その早船では、午後3時に川越新河岸を出たとして、翌日12時に東京荒川沿いに着くと、だいたい22時間ほどかかっていたわけです。夜の船旅なんてロマンチックな風景を想像してしまいそう。その後、明治14年、高崎線が上野から高崎まで開通した時、川越から大宮まであるいは浦和まで歩いて行って、そして汽車に乗って東京に行くという人がだんだん出てきて、人々はほとんど船を使わなくなったそうです。。

その新河岸川舟運を開いたきっかけは、1644年に川越砂久保の開拓が始まり、今福、中福が開拓されていくことのようでもありました。川越の米、畑作物なども江戸に運び出すために運河を開いたようでもあります。さらに農民の人達に、レクレーションの一端として、江戸囃子が広まって現在の川越祭りにつながってゆきました。(川越文化コンシェルジュ講座より)