『うつくしの街川越〜小江戸成長物語』出版しました

川越散策がもっと楽しくなる「ディープな川越」を書籍で発信

『うつくしの街川越~小江戸成長物語』(監修=山野清二郎・松尾鉄城/編集企画=寺島悦恩・小林範子、6月30日発売、2500円+税、400ページ)が株式会社一色出版(東京都文京区本郷)より刊行になりました。

川越が辿ってきた歴史・文化、美術、観光、この一冊で川越つうになれる「ディープな川越」を凝縮、今日の川越の創造性にまで言及、横断的に綴った初めての書籍です。

川越を代表する各専門家の知識を集めてトータルにアピール

きっかけは、2015年から地域の魅力を語る活動として、地域のおもてなし人材養成のための講座の企画運営を3年間で30回行ったこと。

これまであまり地域に関わりを持ってこられなかった市民の方々が新たに川越の魅力を感じ、地元に誇りを持ち、魅力を発信できるコンシェルジュのような人材を養成したいという思いからでした。

そして、これまでの活動の集大成として、川越という地域をアピールする各専門家(十数名)の知識を結集した、デイープなまちの魅力を伝える本を出版することになりました。

歴史・文化・美術・まちづくり・観光の視点から川越を横断的につなげる

観光という視点から見たとき、通り一遍の観光ではいずれ飽きられてしまいます。地域の特徴を生かしたツーリズムの提案が必須で、地域をさらに盛り上げるべく、川越の文化や歴史、まちづくりの貴重な魅力を次世代に伝えることができたら、そんな思いで本書を作りました。

さらに、海外や国内から何度も訪れてくださるディープなファンをつくるその一歩になること目指したいと思っています。

時の鐘

  今や、年間700万人を超す観光客が訪れ、一大観光都市となった川越をかたちづくる江戸から令和までの成長の知恵、さらに持続的社会のモデルについてなど、研究者や商家をはじめ15人が紡ぎ出す言葉を手掛かりに川越のアイデンティティに直に触れることができたらと思います。

そして川越の魅力を歴史・文化・美術・まちづくり・観光の視点からトータルに綴った「川越を横断的につなげる」はじめての書籍となります。と同時に、全国各都市を語る書物のモデルになればと思っています

  今回、出版に際し、定価を下げて若い世代にも購入しやすくし、また、学校図書館を含め、公共施設等に配布するために、クラウドファンデイングを利用、成功しました。https://readyfor.jp/projects/kawagoebook

 出版社 株式会社   一色出版(担当:岩井峰人)〒113-0033東京都文京区本郷4-34-3-1F TEL03-6801-6905/FAX03-6801-6915

江戸から令和までの成長の知恵、持続的社会のモデル

紹介webページ:http://www.isshikipub.co.jp/2019/06/13/kawagoe/

『うつくしの街川越~小江戸成長物語 』書籍の概要はというと、以下のような15人の著者による16の川越の魅力を綴りました。

序章 川越イノベーション・リノベーション

第一章 蔵造りと洋風建築の町並みを歩く

第二章 喜多院の歴史と文化財を訪ねて

第三章 知恵伊豆そして家康の血をひく大名も城主になった川越藩

第四章 川越祭ーー世界が認めた小江戸の大祭ーー

第五章 川越と江戸・東京を結んだ新河岸川舟運

第六章 名産 川越唐桟と川越イモ

第七章 循環型農業のモデルとしての武蔵野・三富新田

第八章 服部家にみる川越町家の暮らし

第九章 江戸初期川越の町人像

第十章 川越城下の総鎮守氷川神社

コラム 河越太郎重頼の墓のある養寿院

第十一章 川越の美術ー岩佐又兵衛、狩野吉信、小茂田青樹、小村雪岱を中心に

第十二章 現代の川越のまちはどのように形成されてきたか

第十三章 一番街商店街と町並み委員会

第十四章 川越蔵の会ー歴史的景観を生かしたまちづくりへの取り組み

第十五章 魅力ある川越観光の創出へ向けて

コラム 菓子屋横丁が蘇った

以下のような執筆者による書籍です。

修 山野清二郎 松尾鉄城

編集企画 寺島悦恩 小林範子

執筆      荒牧澄多  井上浩  可児一男 梶川牧子 粂原恒久

金剛清輝 寺島悦恩  長井和男 羽生修二 服部安行 原知之

松尾鉄城 松本富雄 溝尾良隆 谷澤勇  山田禎久 山野清二郎

表紙デザイン 櫻井理恵(敬称略)

川越の文化や歴史など、まちの魅力を次世代に伝えるその一歩へ

本書を構想するきっかけとなったのは、2015年から川越の文化、歴史、まちづくり、観光資源など多様な分野の専門家に川越の魅力を語っていただき、これまであまり地域に関わりを持ってこられなかった市民に新たに川越の魅力を共有し、地元に誇りを持ち、川越の魅力を発信できるコンシェルジュのような人材を養成したいという思いからでした。

30回の講座で参加者はのべ2000人になり、終了することが惜しまれ、多くの方から継続を希望される声があり、本という形でなら、もっと多くの方々、さらには、川越市外の方々、そして、全国の方々にも川越の魅力を知ってもらえるのではないかという話がまとまり、書籍を作ることになりました。

 一から制作を始め今日まで実に3年以上がかかりました

しかし16章からなる400ページの写真入りの書籍の出版となると制作コストもかさみ、少部数の出版にすれば、書物がかなり高額な定価になってしまい、それ避けるとともに同時に宣伝広報として利用させていただくためにも、クラウドファンデイングを利用、100万円を集めることができました。

皆さんからいただいたご支援は、より多くの方に読んでいただけるよう、手に取りやすい価格にするために活用させていただくとともに、川越市内の小中学校や市内にある高校および図書館などの公共期間に配布させていただけたらと思います。

こうして、江戸の文化を伝え、観光客で賑わう「川越」のディープな魅力を伝える書籍の出版。歴史、文化、まちづくり、観光と横断的に各分野の専門家から次世代に伝えたい地域の貴重なお話をまとめました。シニアから若い人々や新しい住民に伝えていきたいと思います。

川越を始め全国の地域の出版物のモデルケースになればと思っています。


冬の犬吠埼と佐原の町並み

2月10日、日本各地で大雪の中、こちら犬吠埼の海は晴れていました。

成田まで仕事の主人を送り迎えして、金曜夕方からついでにちょっと旅。

関東でも時折小雪が舞い散る中、

ドライブ好きの私達が向かったのは、なんと犬吠埼。

今月末には成田まで圏央道も開通する予定です。

 

ホテルの目の前は海。津波と地震大丈夫かなと思ってしまう程の絶景!!

半島の先端なのですが、東北大震災ではこの一体は無事だったとか。

近くのマリーナや旭市などでは

津波は7メートルにもなったそうなのですが、

半島の先端から左右に津波が分かれたようです。

 

 

浜辺にはきれいな小鳥が。

海岸にあるにもかかわらず、このあたりの被害は少なかったようです。

銚子の岩盤の硬い地域で、昔は城(佐貫城)があったとか。

屏風ヶ浦の海底に沈んでいるそうです。

 

屏風ヶ浦の燈台。

まわりは風力発電機が立ち並ぶ。

風の強い地域なんですね。

佐原に向かう途中、関東の東を護る、強力な開運パワーを持つ、香取神宮へ。

下総国の一宮である香取神宮、

平安時代から伊勢の他に神宮と呼ばれたのは、鹿島神宮と香取神宮だけ。

絢爛な装飾は元禄の頃の大名屋敷にも通じるものです。

 

帰りに、川越とも縁の深い、佐原によりました。

水運を利用して「江戸優り(えどまさり)」といわれるほど栄えていた佐原。

江戸の文化を取り入れ、更にそれを独自の文化に昇華していました

川沿いに重要文化財の建物が立ち並び、タイムスリップしたような街です。

 

 

佐原には伊能忠敬が30年余りを過ごした母屋と店舗がそのまま残されています。

伊忠敬翁は18歳で伊能家の養子となり、家業や村政の中心として活躍した後

50歳過ぎて、天文学や地理学を学び、日本各地を周り

大日本沿海輿地図を完成させたことで広く知られています。

忠敬の地図は日本だけでなく世界でも使われました。

すごく勇気づけられました!!

東京五輪ボート会場は彩湖に。水上交通で経済効果大

東京五輪ボート会場は彩湖に。水上交通で経済効果大

 

小池東京都知事のオリンピック会場変更計画で、彩湖案が浮上しました。

東京五輪ボート会場は彩湖にすることで、水上交通やサイクリングロードの

整備ができれば、経済効果は大きいのではないでしょうか。江戸時代は舟運で

にぎわっていたこの界隈をもう一度活かすことができたら、交通集中の問題の解消や

舟運による観光、荒川沿いに都心、つまり東京湾から埼玉ベッドタウンまで一気に

再開発が進み、美しい水上都市が出現するかもと夢が膨らみます。

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① 彩湖から荒川沿いに浅草や築地、デイズニーランド、観光客のメッカへ海上交通を開く。

彩湖から都心へは、荒川沿いに、墨田川を経由して浅草、築地を通り東京湾へ注ぎます。

すぐ近くにある戸田ボート場があり、また荒川本流は江戸川ボートレース場など通りながら

デイズニーランドや葛西臨海公園を見ながら東京湾へ注ぎます。

豊洲も築地も東京の都心へ一気に海上交通で彩湖往復事ができるようになるのです。

これが単にひとつのオリンピック会場を整備するだけでなく、また築地も動かすことなく

東京エリアに新しい経済価値を生み出す、素晴らしいインフラ整備につながるはずです。

浅草やデイズニーランド、こんな観光客の集まるメッカから直接、ボートで彩湖まで短時間で
往復する事ができるのです。

 

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② サイクリングロードや北部への水上交通の見直し、水害対策も一気にすすむ

さらに彩湖から先は、荒川や支流沿いにサイクリングロードなどが整備されており、

こちらも水上交通と一緒に新たな観光やまちづくりの活性化につながってゆくことが

期待できます。

彩湖自体が都心の災害時の水瓶であるとか、洪水時は使用できるのかという声もありますが

上流地域の水害への整備対応と併せて進めてゆくことで、しっかりした水害対策を予算化して

同時に実施することができ、近い未来に良さ予想される災害への準備も格段にすすみます。

③ 都心から海上をボートで最短20分。彩湖は近い

埼玉県ボート協会理事長の和田卓氏によると、オリンピックの会場としての9つのすべての用件をみたしており、かつ

都心から海上をボートで最短20分で到着することができるといいます。

和田卓は、彩湖に誘致した際の利点をHPで熱く語っています。

http://rowingfield.net

私の地元川越からは、昔は舟運交通が発達していて、舟で浅草までゆくことができました。

今、世の中で建物のリノベーション、地域の再生など、以前あった価値の見直しが進み

また、震災の際には古地図などをみながら土地の安全性も再考されつつあります。

そんな中、ベニスのように、東京も水の都であった往時の姿に一歩でも近づくことができたら

と夢がふくらみます。

川越①寺:喜多院3

客殿にはいってみよう。私たちが入る玄関は実は庫裏、お勝手口だったところだ。その左側を見ると真ん中に灌木があり、そこをぐるっと回ると。敷台があり、偉い方がのる御乗り物、籠が置かれていたた。敷台は非常に高い位置にある。乗り物から履物を変えないでそのまま建物の中にはいるようになっている。その階段をあがると、御殿のほうまで畳廊下でつながっている。この畳廊下の正面のぼりきいたところに使者の間がある。

嘉永5年の喜多院の絵図である。この赤く囲まれている部分が昔の喜多院の敷地を表している。喜多院は、4万8000坪があった。徳川家康自らが縄張りをして敷地を与えた。その敷地が縮められでしまったのは、明治新政府になってから、薩長新政府の指示によってである。新しい国づくりをするために大変な財力が必要なので、多くの人が投資しているにもかかわらず協力しないのは何事だということであった。

まして15代将軍の徳川慶喜が新政府に恭順の意を評して、勝海舟に全権委任し、江戸城を無血開城という形をとったのだから、喜多院の土地も払い下げをせよ、という指示があったのだ。現在の敷地で以外は払い下げられて、その収入は政府に吸い上げられてしまった。これも川越のひとつの姿である。川越は幕府直結の藩なので、新政府以降はかなり冷遇されてきたようだ。

現在、山門から入ると右手に五百羅漢があって、喜多院の本堂と別に潮音殿、慈恵堂、大師堂ともよばれている建物がある。火災の後立てられたものである。それに対して、客殿は家光候の御殿。潮音殿と客殿の間には何ら渡り廊下などもなかった。今はつながっていますが、それは明治以降に作られたものである。

山門の近くに本地堂というお堂があった、紋蔵庵お菓子屋さんのところの細い道をはいってちょっと左側はいったあたり、徳川家康の本地仏は薬師如来なので、薬師堂を本地堂といい、本地堂は南を向いているお堂であった。明治時代になると壊さざるを得ない状況になった。

ところが、当時、西郷隆盛の征韓論があり、旧江戸っ子たちが西郷産頑張れとフィーバーするという記録が残っているほど、西郷人気が高かった。新政府は、戊辰戦争の後、上野の山を全山没収してしまい、洋風公園に変えてしまってしまい、博物園(動物園)をつくってしまった。それが恩賜公園(天皇からいただいた証を残して)の由来である。西郷隆盛は、大久保利通などとの仲違いがあったのだが、寛永寺は江戸ッ子たちには憩いの場として、開かれたお寺だったのでその復興を願う人々も多かった。 その時に、新政府としては、公式表明をすることが立場的にできなかったので、それを暗黙に許したのだが、しかし、寛永寺に建物を建てる資源が全くなかったので、当時の喜多院の住職がどうせ壊さなくてはいけないので、本地堂を上野寛永寺に寄付しよう、ということになった。現在の上野の寛永寺根本中道は川越から喜多院の本地堂が移築されて出来た建物である。明治9年から12年にかけて移築され、国の重要文化財になっている。ここにも江戸と川越のつながりがあるということを知っていただけたらと思う。

これは明治30年の黒門から山門を見たところ。ここに塔があるのがわかりだろうか。これが多宝塔です。日吉(ひえい)神社のところにたっていたが、それが大正13年道路を切ってしまって全部なくなってしまった。払い下げのことがあったので、多宝塔も壊して、敷地内に移動した。昭和50年ぐらいまでは、潮音殿から客殿にいく間の通路のところにまるで竜宮城のように石で門があってその上に塔が立っていたのを覚えていらっしゃるかたもおられるでしょうか。その移動した時に、地面の中からまが玉、くた玉がはいった石の箱が出てきたす。中をあけると墨書で天海の名前が書いてある。寛永15年の火災のあと、ここに多宝塔を作った証である。喜多院に保管してあるので、機会がありましたら見て欲しい。

この茶畑からは、発掘調査を行った時に、室町時代の土抗(墓)を2基発見した。また多数の板碑が出てきて、室町時代にお寺として機能していたんだことが証明される。そんなことから明治30年の写真からお寺としてお茶畑、桑畑をしていたのではないかとも考える。(川越文化コンシェルジュ講座より)

 

川越のまちに足りないものは?

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7月3日の川越文化コンシェルジュ講座は、

川越蔵の会の原会長のお話でした。
 タイトルは「歴史的景観をいかしたまちづくりへの取り組み」

蔵の会の一番街を中心としが活性化にむけてのこれまでの努力は誠に素晴らしいもので行政、専門家、地方商店などの連携にもこれまでご苦労がうかがわれるお話でした。



川越文化コンシェルジュ講座で「川越のまちに足りないものは」を
 皆さんに聞いてみましたので、その意見をまとめて書き出してみました。
 これからの活動の参加にしたいと思っています。

以下「川越のまちに足りないものは」アンケート

ガイドになりたいので、市民観光ガイド育成の研修システムがあると良いです。
 川越駅から行き方に困っている人がよくいます。バスがわかりにくい。

川越織物市場を見学できるようにしてほしいです。そこで川越唐桟や
 できたら川越素麺など復活して売ってほしい。

できたらポケットパークごとに公共トイレを設置してほしいです。

市民の川越に対する郷土愛や「川越ならでは」に対する理解や深まってもっと自信を持ってほしい。

一番街の土、日、歩行者道にできないだろうか

土曜、日曜、祝日はまたは時間を決めて歩行者天国を設けてほしい。
 バス停があるのは便利でとてもうれしいが、道路の幅が車と人双方には
 狭すぎて、ゆっくり景観を見ることが出来ない状態である。

これからは川越近郊の宿泊を増やすために、観光協会などと提携し、宿泊施設を整備する。

行政の課題でもあるが、伝統文化の普及とともに
 川越新住民と市街中心地の交流を促進し、川越新住民も
 川越に対する郷土愛をもてるような活動を増やす。

蔵の街のリピーターを増やすために
 1 説明表示の数や位置
 2 目的地への順路表示
 3 通路の安全性
 4 蔵、寺、川、産物、食をつなげるパンフレット表示をつくる

緑の空間がほしい

居酒屋的なにぎわいが感じられる横丁、路地的空間の整備

夜のにぎわいづくりが必要

路地をもっと楽しくできないか

全国チェ-ンの店が増えてゆくのがさびしいので
 地元の若い人が活躍でき、この街を守ってもらえたら。

交通では、危険な思いをしている。

バスの利用方法がわかりにい。

このような意見が寄せられました。皆さん川越をよくしようと暑さの中、熱い思いが寄せられました。

明治の大火と蔵造りの町並み

1893(明治26)年、川越で大火が起きました。当時の総戸数の3割強にあたる

1,300戸数焼失とされていますが、実際は大半のたてものが焼けてしまったのです。

この大火の後にようやく出来たのが、蔵造りの建物です。明治の26年から30年当時、

東京の表通りは蔵造り町並みでした。銀座は国策で煉瓦造になりましたが、明治20年代は、

煉瓦よりも蔵を立てるのが主流でした。

煉瓦は技術者が足りなく、まだ庶民にはなかなか手が届かないものだったのです。

蔵だったら、農家の人が土ごねをし、田んぼの土で作ることができました。

材木も壁土も建具も、日本の建物はリサイクルが可能。当時は職人さんもたくさん

ました。日本建築はリサイクル可能な地球にやさしい建て方なのですね。

関東大震災で、東京は壊滅的打撃をうけました。東京では、武家屋敷と違い、町場は地盤が悪い

低湿地に作られていたので、地震では壊滅的打撃を受けました。その関東大震災以前の東京の町並み

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を彷彿と させる、その面影を残しているのが川越のまちなみとなって現在に生きています。

そのことを知っている世代は、じいさんが建てた家に誰も来てくれるはずはない、明治の新しい

建物にきてくれるわけがないとの考えが中心だったそうですが、今や街のシンボルとなる文化財に

なったのです。(川越文化コンシェルジュ講座より)

江戸時代の町割りを残す川越の街並み

現在の場所に川越城が築かれたのは1457年のことです。

少し歴史の話をしますと、室町幕府は、足利一族を鎌倉公方として関東の支配権を与えたのですが
1455年5代鎌倉公方足利成氏は8代将軍足利義政に反旗を翻し、鎌倉公方を補佐する関東管領
上杉氏とも対立し成氏は本拠地を古河へと移し、古河公方となります。このように古河公方と堀越公方と
いう二人の公方が関東で対立するこになりました。
その際、鎌倉方の最前線として、岩槻、川越、江戸に拠点が置かれました。川越の中心は、それ以前は
入間川の河畔にあった河越の館でした。大規模に拡張されたのは江戸時代になってからです。
河越から川越という表記に変わったのも江戸時代になってからのことでした。

松平伊豆守信綱候が、この川越に殿様として来られた時の大きな仕事が、この川越城の整備と
十か町四門前郷分町(じっかちょうしもんぜんごうぶんちょう)という街並みの整備でした。
1638(寛永15)年の大火事の後のことです。

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山崎家別邸から庭を眺める

 

 

松平信綱の時代に川越は十か町四門前郷分町(じっかちょうしもんぜんごうぶんちょう)という、
近世の模範的な城下町の区割りを完成させました。その特色は東側は自然要害。田植えを
する時に腰あたりまで水に使ってしまので田舟を使って田植えをしていたのです。
西側は大地、家光の時代はまだいつ豊臣の残党、つまり真田など最後まで抵抗した
人たちが攻めてこないとも限らないということで、お寺はほとんど今の蔵づくりの
町の西に移動させられました。養寿院、行伝寺、蓮馨寺、妙養寺が四門前を形成しています。

今まちを歩くとなぜこんなにお寺が集中しているのかと思うでしょう。焙烙灸の妙昌寺などは、
もともと足利義満の時代には蔵造りのまちなみにありました。
いかに軍事的に安定した町にするかということを考え町割りを整えたのが信綱なのです。
この街並みは現在でもほとんど変わっていません。

川越の町並みで一番大きな変化をしたのは、昭和の初期の近代建築が集まっている中央通りの部分です。
仲町から本川越までぶち抜いた通りであるが、本来の街道というのは、札の辻から仲町そして、
左に折れて、商工会議所からまっすぐ所沢街道に繋がるというものでした。今その中央通りでは今、町の人たち
が昭和の町づくりという運動を始めています。

道路は、入間川街道、東京(川越)街道、坂戸方面、松山方面、上尾方面というように、十か町から放射状に
広がっていますが、また、久保町から東西にのびる道は昭和になってから新しく出来た道でもあります。

川越街道は江戸時代からの街道で、日本橋から出発した中山道が板橋宿の平尾追分で分岐し川越まで至る
道です。「九里(栗)よりうまい13里半(さつまいも)」、川越は江戸から13里の道のりです。中心商業
地域はそのまま商業系用途地域に、武家地だったところはそのまま住宅系用途地域になっていますが、
人間関係など引き継いている部分もあり、新しいアイデアやしくみなどがか簡単には実現しにくいという

難しい一面も持っています。(川越文化コンシェルジュ講座より)

クレアモールと川越の変遷

川越駅東口のクレアモールの現在の風景です。昔の所沢街道であった幅の狭い
道の両サイドに若者向けの店舗が集まっています。地元の買い物客と観光客など
通り道で賑わい、クレアモール商店街の通行量は埼玉県内で1位となっています。

川越の都市の基盤は江戸時代にできています。現在でも本来の中心
商業地域はそのまま商業系用途地域に、武家地だったところは
そのまま住宅系用途地域になっています。変わったところ、というか
加わわったところは、この駅の周辺部あたりです。

この川越駅周辺は、江戸時代の地図を上に重ねてみると何もない場所で
もともと武家地だったところが、明治以降は桐畑になっていました。
川越箪笥の産地だったのです。

「娘十八かわごえだんす 添へてやりたや振袖に」(西条八十)それくらい川越は
箪笥づくりが盛んで、昔から女の子が生まれると庭に桐の木を植えるという習慣が
の娘が年頃になってお嫁入りするときは、「桐たんす」を人竿、その基盤を作ったのは
江戸お松平信綱の時です。

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けれども、鉄道の駅が発達して、街の中心地は駅の周辺に移ってゆきました。
昭和40年頃からの変化です。マルヒロデパートは昔は一番街にあったのですが
昭和39年、現在のクレアモールに移転しました。長崎屋、富士銀行なども移転、
専売公社も警察も消防も税務署も南に移転ました。その結果、一番街がさびれて
ゆくことから、旧中心市街地の保存運動が生まれてきます。

ちなみに、昭和30年代後半の高度経済成長時代、川越は首都圏のベッドタウンと
位置づけられ、川越周辺部にどんどん家が出来ました。
最初は、新河岸周辺、40年代には角栄団地、東急団地、住友団地、50年代には
川鶴団地、60年代には伊勢原団地が出来て、急速に街が広がってゆきました。

平成2年、第2種都市再開発事業で駅前にアトレが出来ます。
東口駅前のごちゃごちゃした建物をビルのテナントに置き換えて開発する事業でした。

さらに、昔の川越のはずれもはずれ、現在の川越駅西口には少年刑務所がありました。
今は跡地を中心に土地区画整理事業が行われ、公共施設、道路、公園が整えられ、
平成25年、ウエスタ川越が開業しました。

百年でこんなに変わった川越の鉄道

副都心線が開業して 東横線・みなとみらい線と直通運転がはじまったのは2013年のこと。
川越から新宿、渋谷、さらに横浜まで直通でいけるのは、市民としては大変便利になったなあと感じています。
また、西武線の本川越駅も西口と駅前広場が出来、川越市駅、本川越駅、川越駅とバラバラだったエリアが回遊しやすくなりました。

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ところで、川越に最初に鉄道がひかれたのは、明治28年(1894年)のこと。日清戦争が終わり、
講話条約が結ばれた年のことです。現在の西武線の本川越駅が、川越ではじめてできた駅です。
本川越から所沢経由で国分寺に抜け、中央線とぶつかるという鉄道です。

明治20年代は、織物産業が盛んな時代。所沢は関東有数の織物産地として発展しました。
川越織物学校(現川越工業高校)の卒業生が「湖月縮」というちじみ織物をつくり発展しました。
竹久夢二が絵葉書や中山晋平による所沢小唄など宣伝も盛んに行われます。もともと直に東京に
出荷するルートがなく、鉄道を敷くことに商人が尽力したという経緯があったのです。

大正3年、東武東上線が開業します。東京と上州渋川までを結ぶという意味で東上線と
命名されましたが、その後、国鉄高崎線が出来たため、この計画は寄居で止まってしまいました。

そして、東上線開業の際に、六軒町に川越町駅が出来ました。さらに、その後、川越に国鉄が
敷かれることになって、今の川越駅が新しく作られ、もともとあった川越駅が本川越駅という名称になったのです。

当時は、川越に鉄道が敷設されるのに反対だった議員などもいて、川越では中心街に鉄道は
建設されませんでした。そのことから現在街の中心地は駅よりの南に移り、旧中心市街地が北に残るかたちになりました。

鉄道の前は、285年間、江戸と川越を結んだ船が毎日行き来していました。主に荷物
を運んでおりましたら、早船という、人を乗せる専用として作った特急のような舟もありました。
その早船では、午後3時に川越新河岸を出たとして、翌日12時に東京荒川沿いに着くと、だいたい22時間ほどかかっていました。

その後、明治14年、高崎線が上野から高崎まで開通した時、川越から大宮まであるいは浦和まで
歩いて行って、そして汽車に乗って東京に行くという人がだんだん出てきて、人々はほとんど船を使わなくなったそうです。

川越ストーリー①寺:喜多院

IMG_4329喜多院(無量寿寺)のはじまり

喜多院は、平安時代、淳和天皇の勅により天長7年(830)慈覚大師円仁により創建された勅願寺である。川越の仙波 の地には古墳群に囲まれている場所があり、聖徳太子の活躍する以前、多くの住民が生活していた。下小阪古墳群、的場古墳群、南大塚古墳 仙波古墳群など古墳群が密集しています。寺には、本尊阿弥陀如来をはじめ不動明王、毘沙門天等を祀り、無量寿寺と名づけた。

大和朝廷は、百済から伝わっていた仏教思想にもとづいてで天皇中心の政治を行う律令国家として、関東一円の完全な支配を目指した。

それまで日本では、広く自然崇拝のアニミズムが浸透していたので、仏教思想を広く民衆に知らしめていかなければならない。中臣鎌足たちが大化の改新以後、仏教を広めながら日本の国を統一する動きの中で、川越の仙波の地も寺が作られたわけである。 これが喜多院のはじまりである。

その2年前には松島の瑞巌寺など建立した円仁高僧であるが、無量寿寺を建立したあと、遣唐使(僧)として中国に渡り、837年から845年の9年間、仏教、政治のあり方などを学んだ。
2年前に、中国の長安、河南商登封(とふ)市の法王寺で円仁という文字が刻まれた石が発見された。考古学的な物的証拠が見つかったわけである。その頃は、道教思想が広まって仏教弾圧がされた。そこで法王寺の寺宝を失ってはいけないと土に埋め、その際、証を文書にして石に刻んだものを一緒に埋めた。

(円仁の肖像画は群馬県の世良田にある長楽寺というお寺に。ここにも東照宮がある。修復にあたっては喜多院の当時の住職が世良田の東照宮の改修にも尽力した。塩入住職は、昭和20年8月13日、終戦の2日前、浅草の浅草寺から川越の喜多院に入り、荒れ寺だった喜多院を復興するが、これを昭和の大復興と言う。)

喜多院の七不思議から

川越には古くから、仙芳仙人が、竜神の助けを得て海を干上げ、無量寿寺領を創り上げたという伝説がある。
無量寿寺院の周りは漫々たる海水があったが、そこに仙芳というお坊さんが来て、竜神に少し土地をわけてもらいたいと言ったところ、袈裟ぐらいの大きさならわけてよいということだったのだが、法力により袈裟が広がって海水を除き、仙波の大地ができた、そこに尊像を安置した、という伝説で、円仁による喜多院の創建をこのような形で言い伝えたのだと思われる。

喜多院の本殿は慈恵大師をまつったお堂で「大師堂」とよばれているが、いつのまにか潮音殿と呼ばれるようになった。伝説では縄文時代の昔は海だったから、陸地の先端にあり波の音が聞こえるという意味で 潮音殿というお堂の名付けがされているようだ。お堂の中には、江戸時代に天海僧正が、「潮音殿」と書いた額が、今でも残っている。修行をしている中で、まさに悟りを開いた時、海はすでにないが、太古の海のさざなみが聞き終える、とでもいえようか。

その後、天慶の乱(939年)で、平将門が関東から東北を我が物にしようとするのですが、甥の平貞盛と国司の藤原秀郷(俵藤太)が平将門を滅ぼし関東一円をまた平和をもたらすのだが、その時、喜多院はかなり影響を受けて衰退する。

鎌倉時代になると、源頼朝の子、源頼家の妻は川越太郎重頼の乳母という関係で、その妻の実家が比企一族であった。ところが北条時正が、頼朝の子としては四男、北条政子の子としては次男の源実朝を担いで将軍にしようともくろみ、頼家は追放され、12歳で征夷大将軍に就く。兄の頼家はたった一年だけしか将軍職にはついていない。こんなことがあって良いのかと、比企能員は娘が乳母として育てた頼家のために、実朝をやっつけようと北条時政に刃をむけるのでだが、敗れてしまって殺されてしまう。(元久の乱)。戦いは2年間続き、その時にも喜多院が炎上してしいる。1205年のことである。

(川越の最明寺は5代目北条時頼により後に臨済宗(自力本願・武家のお寺)に改宗されていますが。余談ですが、川越の水上公園のところにある最明寺は北条時頼が作りました。武家は自力本願の臨済宗を信仰いたしました。一般民衆では、自力本願の宗教として曹洞宗を信仰した人が川越には非常に多いです。その北条時頼に川越と全く無縁ではなく、最明寺は北条時頼と源頼家の二男千寿丸の出会いにより創建されたお寺です。観光的は駅から遠いのであまり人がおりません)

しばらく、草茫々の状態が続くが、 永仁4年(1296)伏見天皇の勅命で無量寿寺を中興せよという命令がくだる。無量寿寺を尊海僧正に復興をさせることになった。尊海はその時、都幾川の慈光寺でで修行をしていたが、牛にのって川越に来て、杖をついて礎石を探す。が、なかなか見つからず、夕方になってしまう。また一晩、野宿しようとしたときに、流れ星がパーッと落ちた、その落ちた場所に明星の杉があって、みると無量寿寺の跡の礎石が見つかった、という明星の伝説が残っている。そして無量寿寺を再建して、慈恵大師(元三大師)をお祀りし官田50石を寄せられ関東天台の中心となる。無量寿寺を再建して、最初に作ったのが現在の中院。のちに北院(のちの喜多院)と南院をつくった。

古城の春の花の影
うつる栄枯の諭しあり
明星かかる老杉に
真理に生きよと鐘ひびく
この窓に光をもとめ
我ら立つ 川越一中 (校歌より)

このようにして無量寿は復興したが、戦国の時代、上杉と北条の戦いの時にまた焼けてしまう。川越では
1537年の三ツ木原古戦場での戦いから1546年の川越夜戦まで9年間の上杉と北条氏の争いがあった時代である。
戦国動乱が終わった後、秀吉による天下統一は、1590年天正18年のこと。すなわち豊臣秀吉が徳川家康と前田利家に命じて、小田原を拠点として川越城や江戸城を収めていた北条氏を滅ぼした時である。しかしながら、5代目北条氏直は、家康の娘、督姫(ごうひめ)を正室として迎えている。家康は秀吉の命には従わざるをえなかったので、娘が嫁いでいるにも関わらず、家康は氏直を攻めていまが、北条氏を完全に潰すということを家康はしていません。北条氏を今でいう越後へ移動させまして、喜連川という名前に変えて幕末まで続きます。そういう形で川越は関東、徳川家康の支配下に入ります。

(川越文化コンシェルジュ講座より)