喜多院(無量寿寺)のはじまり
喜多院は、平安時代、淳和天皇の勅により天長7年(830)慈覚大師円仁により創建された勅願寺である。川越の仙波 の地には古墳群に囲まれている場所があり、聖徳太子の活躍する以前、多くの住民が生活していた。下小阪古墳群、的場古墳群、南大塚古墳 仙波古墳群など古墳群が密集しています。寺には、本尊阿弥陀如来をはじめ不動明王、毘沙門天等を祀り、無量寿寺と名づけた。
大和朝廷は、百済から伝わっていた仏教思想にもとづいてで天皇中心の政治を行う律令国家として、関東一円の完全な支配を目指した。
それまで日本では、広く自然崇拝のアニミズムが浸透していたので、仏教思想を広く民衆に知らしめていかなければならない。中臣鎌足たちが大化の改新以後、仏教を広めながら日本の国を統一する動きの中で、川越の仙波の地も寺が作られたわけである。 これが喜多院のはじまりである。
その2年前には松島の瑞巌寺など建立した円仁高僧であるが、無量寿寺を建立したあと、遣唐使(僧)として中国に渡り、837年から845年の9年間、仏教、政治のあり方などを学んだ。
2年前に、中国の長安、河南商登封(とふ)市の法王寺で円仁という文字が刻まれた石が発見された。考古学的な物的証拠が見つかったわけである。その頃は、道教思想が広まって仏教弾圧がされた。そこで法王寺の寺宝を失ってはいけないと土に埋め、その際、証を文書にして石に刻んだものを一緒に埋めた。
(円仁の肖像画は群馬県の世良田にある長楽寺というお寺に。ここにも東照宮がある。修復にあたっては喜多院の当時の住職が世良田の東照宮の改修にも尽力した。塩入住職は、昭和20年8月13日、終戦の2日前、浅草の浅草寺から川越の喜多院に入り、荒れ寺だった喜多院を復興するが、これを昭和の大復興と言う。)
喜多院の七不思議から
川越には古くから、仙芳仙人が、竜神の助けを得て海を干上げ、無量寿寺領を創り上げたという伝説がある。
無量寿寺院の周りは漫々たる海水があったが、そこに仙芳というお坊さんが来て、竜神に少し土地をわけてもらいたいと言ったところ、袈裟ぐらいの大きさならわけてよいということだったのだが、法力により袈裟が広がって海水を除き、仙波の大地ができた、そこに尊像を安置した、という伝説で、円仁による喜多院の創建をこのような形で言い伝えたのだと思われる。
喜多院の本殿は慈恵大師をまつったお堂で「大師堂」とよばれているが、いつのまにか潮音殿と呼ばれるようになった。伝説では縄文時代の昔は海だったから、陸地の先端にあり波の音が聞こえるという意味で 潮音殿というお堂の名付けがされているようだ。お堂の中には、江戸時代に天海僧正が、「潮音殿」と書いた額が、今でも残っている。修行をしている中で、まさに悟りを開いた時、海はすでにないが、太古の海のさざなみが聞き終える、とでもいえようか。
その後、天慶の乱(939年)で、平将門が関東から東北を我が物にしようとするのですが、甥の平貞盛と国司の藤原秀郷(俵藤太)が平将門を滅ぼし関東一円をまた平和をもたらすのだが、その時、喜多院はかなり影響を受けて衰退する。
鎌倉時代になると、源頼朝の子、源頼家の妻は川越太郎重頼の乳母という関係で、その妻の実家が比企一族であった。ところが北条時正が、頼朝の子としては四男、北条政子の子としては次男の源実朝を担いで将軍にしようともくろみ、頼家は追放され、12歳で征夷大将軍に就く。兄の頼家はたった一年だけしか将軍職にはついていない。こんなことがあって良いのかと、比企能員は娘が乳母として育てた頼家のために、実朝をやっつけようと北条時政に刃をむけるのでだが、敗れてしまって殺されてしまう。(元久の乱)。戦いは2年間続き、その時にも喜多院が炎上してしいる。1205年のことである。
(川越の最明寺は5代目北条時頼により後に臨済宗(自力本願・武家のお寺)に改宗されていますが。余談ですが、川越の水上公園のところにある最明寺は北条時頼が作りました。武家は自力本願の臨済宗を信仰いたしました。一般民衆では、自力本願の宗教として曹洞宗を信仰した人が川越には非常に多いです。その北条時頼に川越と全く無縁ではなく、最明寺は北条時頼と源頼家の二男千寿丸の出会いにより創建されたお寺です。観光的は駅から遠いのであまり人がおりません)
しばらく、草茫々の状態が続くが、 永仁4年(1296)伏見天皇の勅命で無量寿寺を中興せよという命令がくだる。無量寿寺を尊海僧正に復興をさせることになった。尊海はその時、都幾川の慈光寺でで修行をしていたが、牛にのって川越に来て、杖をついて礎石を探す。が、なかなか見つからず、夕方になってしまう。また一晩、野宿しようとしたときに、流れ星がパーッと落ちた、その落ちた場所に明星の杉があって、みると無量寿寺の跡の礎石が見つかった、という明星の伝説が残っている。そして無量寿寺を再建して、慈恵大師(元三大師)をお祀りし官田50石を寄せられ関東天台の中心となる。無量寿寺を再建して、最初に作ったのが現在の中院。のちに北院(のちの喜多院)と南院をつくった。
古城の春の花の影
うつる栄枯の諭しあり
明星かかる老杉に
真理に生きよと鐘ひびく
この窓に光をもとめ
我ら立つ 川越一中 (校歌より)
このようにして無量寿は復興したが、戦国の時代、上杉と北条の戦いの時にまた焼けてしまう。川越では
1537年の三ツ木原古戦場での戦いから1546年の川越夜戦まで9年間の上杉と北条氏の争いがあった時代である。
戦国動乱が終わった後、秀吉による天下統一は、1590年天正18年のこと。すなわち豊臣秀吉が徳川家康と前田利家に命じて、小田原を拠点として川越城や江戸城を収めていた北条氏を滅ぼした時である。しかしながら、5代目北条氏直は、家康の娘、督姫(ごうひめ)を正室として迎えている。家康は秀吉の命には従わざるをえなかったので、娘が嫁いでいるにも関わらず、家康は氏直を攻めていまが、北条氏を完全に潰すということを家康はしていません。北条氏を今でいう越後へ移動させまして、喜連川という名前に変えて幕末まで続きます。そういう形で川越は関東、徳川家康の支配下に入ります。
(川越文化コンシェルジュ講座より)