松平信綱と川越

川越城の歴史をお話しようと思います。川越の基礎ができたのは、
松平伊豆守信綱の時代です。信綱の遺産がいろんな形で残って、
現在の川越のまちづくりの基盤が出来上がっています。

まずは町割り。信綱によって形作られた川越の町割は、
松平信綱によって形作られた川越の町割は、「十ヵ町四門前町」。
といられ、近世の模範的な城下町の区割りを完成させたわけです。
東側、北側、南側は、低地と河川で囲まれていて、田植えをする時
に腰あたりまで水に使ってしまうような大変な場所だったのです。
それに対して西側の大地、今の蔵づくりの町の西は、敵から容易に
攻められる可能性があったので、寺を集めておきました。
いかに軍事的に安定した町にするかということを整えたのが信綱なのです。

表玄関である西大手門の前を基点に南方に川越街道が江戸まで伸びた。
西大手門から西へ進む先には高札場である「札の辻」が設けられ、
札の辻を中心とした一帯が城下の商人地区である上五ヶ町で、
その目抜き通りが今の蔵のまちであります。
上五ヶ町に隣接して、職人町の下五ヶ町があった。本丸の周囲には
内堀が張り巡らされ、その南側に武家屋敷が建ち並んだ。家老屋敷などは
大手門周辺に、下級藩士は、川越街道の入口近くの組屋敷に住まわされた。
そのさらに南側は江戸幕府の直営社であった喜多院や仙波東照宮が広大な寺領を
構えました。

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新河岸川舟運を開いたのも松平信綱です。1644年福原の砂久保の開拓、今福、中福が
開拓されてゆき、3年後に舟運がはじまりました。川越の米、畑作物など江戸に
運び出すことによって、そして収益を得るというビジネスモデルをつくりました。

さらに「川越まつり」の基盤をつくったのも松平信綱です。1648年、赤坂山王の神輿2基
と獅子頭、太鼓などの祭礼用具を川越氷川神社に奉納し、江戸の「天下祭」になら
って「 神幸祭(じんこうさい)」を興したのです。川越氷川祭りの山車行事、
いわゆる川越祭りです。川越城下に祭りがないというのはさびしいことだと、
江戸天下まつりの形態をそのまま川越にとりいれ、現在に伝わっています。
東京ではその山車祭りは現在まったく行われていません。川越で伝統を守り伝え
ているのです。

新河岸川舟運を開いたのも松平信綱です。1644年福原の砂久保の開拓、今福、中福が
開拓されてゆき、3年後に舟運がはじまりました。川越の米、畑作物など江戸に
運び出すことによって、そして収益を得るというビジネスモデルをつくりました。

その伊豆守信綱が福原地区を開発できたのは、。一体が武蔵野の原野であったから。
武蔵野というのはすすきが原のことです。
「武蔵野は 月のいるべき山もなし 草よりい出て 草にこそ入れ」
国木田独歩の「武蔵野」という作品で雑木林のイメージが強くなってしまったんですが、
元来はそうではないようです。すすきが原だった。だから開拓が可能だったのです。

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また水の問題。飲料水。東京の江戸時代の飲水は玉川上水の水を江戸の町へ
ひいてそこに共同井戸をつくってくみあげることをはじめたのは信綱です。

徳川家康が江戸城へ入府後、約50年たち江戸の人口増加による飲料水不足が
問題となり、幕府は、1653年に多摩川から水を引く玉川上水を掘る
ことを許可しました。この工事は難工事となり信綱は家臣の安松金右衛門・
小畠助左衛門に補佐を命じ工事を続行させ、1654年に完成しました。

その功績により信綱は、関東ローム層の乾燥した台地のため生活用水に
難渋していた領内の野火止に玉川上水の分水を許可され、1655年に野火止用水が
開通しました。こ

このように江戸から川越の文化的、政治的、軍事的、そういった基盤を完成させた
殿様が伊豆守信綱です。

また箪笥なども。「娘十八かわごえだんす 添へてやりたや振袖に」という、
西条八十の歌がありますが、昔から川越には女の子が生まれると庭に桐の木を植
えるという習慣がありました。その娘が年頃になってお嫁入りするときは、「桐
たんす」を人竿、その木で作れる、そんなような文化をつくったのも信綱です。