クレアモールと川越の変遷

川越駅東口のクレアモールの現在の風景です。昔の所沢街道であった幅の狭い
道の両サイドに若者向けの店舗が集まっています。地元の買い物客と観光客など
通り道で賑わい、クレアモール商店街の通行量は埼玉県内で1位となっています。

川越の都市の基盤は江戸時代にできています。現在でも本来の中心
商業地域はそのまま商業系用途地域に、武家地だったところは
そのまま住宅系用途地域になっています。変わったところ、というか
加わわったところは、この駅の周辺部あたりです。

この川越駅周辺は、江戸時代の地図を上に重ねてみると何もない場所で
もともと武家地だったところが、明治以降は桐畑になっていました。
川越箪笥の産地だったのです。

「娘十八かわごえだんす 添へてやりたや振袖に」(西条八十)それくらい川越は
箪笥づくりが盛んで、昔から女の子が生まれると庭に桐の木を植えるという習慣が
の娘が年頃になってお嫁入りするときは、「桐たんす」を人竿、その基盤を作ったのは
江戸お松平信綱の時です。

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けれども、鉄道の駅が発達して、街の中心地は駅の周辺に移ってゆきました。
昭和40年頃からの変化です。マルヒロデパートは昔は一番街にあったのですが
昭和39年、現在のクレアモールに移転しました。長崎屋、富士銀行なども移転、
専売公社も警察も消防も税務署も南に移転ました。その結果、一番街がさびれて
ゆくことから、旧中心市街地の保存運動が生まれてきます。

ちなみに、昭和30年代後半の高度経済成長時代、川越は首都圏のベッドタウンと
位置づけられ、川越周辺部にどんどん家が出来ました。
最初は、新河岸周辺、40年代には角栄団地、東急団地、住友団地、50年代には
川鶴団地、60年代には伊勢原団地が出来て、急速に街が広がってゆきました。

平成2年、第2種都市再開発事業で駅前にアトレが出来ます。
東口駅前のごちゃごちゃした建物をビルのテナントに置き換えて開発する事業でした。

さらに、昔の川越のはずれもはずれ、現在の川越駅西口には少年刑務所がありました。
今は跡地を中心に土地区画整理事業が行われ、公共施設、道路、公園が整えられ、
平成25年、ウエスタ川越が開業しました。