明治の大火と蔵造りの町並み

1893(明治26)年、川越で大火が起きました。当時の総戸数の3割強にあたる

1,300戸数焼失とされていますが、実際は大半のたてものが焼けてしまったのです。

この大火の後にようやく出来たのが、蔵造りの建物です。明治の26年から30年当時、

東京の表通りは蔵造り町並みでした。銀座は国策で煉瓦造になりましたが、明治20年代は、

煉瓦よりも蔵を立てるのが主流でした。

煉瓦は技術者が足りなく、まだ庶民にはなかなか手が届かないものだったのです。

蔵だったら、農家の人が土ごねをし、田んぼの土で作ることができました。

材木も壁土も建具も、日本の建物はリサイクルが可能。当時は職人さんもたくさん

ました。日本建築はリサイクル可能な地球にやさしい建て方なのですね。

関東大震災で、東京は壊滅的打撃をうけました。東京では、武家屋敷と違い、町場は地盤が悪い

低湿地に作られていたので、地震では壊滅的打撃を受けました。その関東大震災以前の東京の町並み

300px-Kawagoe_Kuratsukuri_Museum

 

 

 

 

 

 

を彷彿と させる、その面影を残しているのが川越のまちなみとなって現在に生きています。

そのことを知っている世代は、じいさんが建てた家に誰も来てくれるはずはない、明治の新しい

建物にきてくれるわけがないとの考えが中心だったそうですが、今や街のシンボルとなる文化財に

なったのです。(川越文化コンシェルジュ講座より)