7月3日の川越文化コンシェルジュ講座は、 川越蔵の会の原会長のお話でした。 タイトルは「歴史的景観をいかしたまちづくりへの取り組み」 蔵の会の一番街を中心としが活性化にむけてのこれまでの努力は誠に素晴らしいもので行政、専門家、地方商店などの連携にもこれまでご苦労がうかがわれるお話でした。 川越文化コンシェルジュ講座で「川越のまちに足りないものは」を 皆さんに聞いてみましたので、その意見をまとめて書き出してみました。 これからの活動の参加にしたいと思っています。 以下「川越のまちに足りないものは」アンケート ガイドになりたいので、市民観光ガイド育成の研修システムがあると良いです。 川越駅から行き方に困っている人がよくいます。バスがわかりにくい。 川越織物市場を見学できるようにしてほしいです。そこで川越唐桟や できたら川越素麺など復活して売ってほしい。 できたらポケットパークごとに公共トイレを設置してほしいです。 市民の川越に対する郷土愛や「川越ならでは」に対する理解や深まってもっと自信を持ってほしい。 一番街の土、日、歩行者道にできないだろうか 土曜、日曜、祝日はまたは時間を決めて歩行者天国を設けてほしい。 バス停があるのは便利でとてもうれしいが、道路の幅が車と人双方には 狭すぎて、ゆっくり景観を見ることが出来ない状態である。 これからは川越近郊の宿泊を増やすために、観光協会などと提携し、宿泊施設を整備する。 行政の課題でもあるが、伝統文化の普及とともに 川越新住民と市街中心地の交流を促進し、川越新住民も 川越に対する郷土愛をもてるような活動を増やす。 蔵の街のリピーターを増やすために 1 説明表示の数や位置 2 目的地への順路表示 3 通路の安全性 4 蔵、寺、川、産物、食をつなげるパンフレット表示をつくる 緑の空間がほしい 居酒屋的なにぎわいが感じられる横丁、路地的空間の整備 夜のにぎわいづくりが必要 路地をもっと楽しくできないか 全国チェ-ンの店が増えてゆくのがさびしいので 地元の若い人が活躍でき、この街を守ってもらえたら。 交通では、危険な思いをしている。 バスの利用方法がわかりにい。 このような意見が寄せられました。皆さん川越をよくしようと暑さの中、熱い思いが寄せられました。
江戸時代の町割りを残す川越の街並み
現在の場所に川越城が築かれたのは1457年のことです。
少し歴史の話をしますと、室町幕府は、足利一族を鎌倉公方として関東の支配権を与えたのですが
1455年5代鎌倉公方足利成氏は8代将軍足利義政に反旗を翻し、鎌倉公方を補佐する関東管領
上杉氏とも対立し成氏は本拠地を古河へと移し、古河公方となります。このように古河公方と堀越公方と
いう二人の公方が関東で対立するこになりました。
その際、鎌倉方の最前線として、岩槻、川越、江戸に拠点が置かれました。川越の中心は、それ以前は
入間川の河畔にあった河越の館でした。大規模に拡張されたのは江戸時代になってからです。
河越から川越という表記に変わったのも江戸時代になってからのことでした。
松平伊豆守信綱候が、この川越に殿様として来られた時の大きな仕事が、この川越城の整備と
十か町四門前郷分町(じっかちょうしもんぜんごうぶんちょう)という街並みの整備でした。
1638(寛永15)年の大火事の後のことです。
山崎家別邸から庭を眺める
松平信綱の時代に川越は十か町四門前郷分町(じっかちょうしもんぜんごうぶんちょう)という、
近世の模範的な城下町の区割りを完成させました。その特色は東側は自然要害。田植えを
する時に腰あたりまで水に使ってしまので田舟を使って田植えをしていたのです。
西側は大地、家光の時代はまだいつ豊臣の残党、つまり真田など最後まで抵抗した
人たちが攻めてこないとも限らないということで、お寺はほとんど今の蔵づくりの
町の西に移動させられました。養寿院、行伝寺、蓮馨寺、妙養寺が四門前を形成しています。
今まちを歩くとなぜこんなにお寺が集中しているのかと思うでしょう。焙烙灸の妙昌寺などは、
もともと足利義満の時代には蔵造りのまちなみにありました。
いかに軍事的に安定した町にするかということを考え町割りを整えたのが信綱なのです。
この街並みは現在でもほとんど変わっていません。
川越の町並みで一番大きな変化をしたのは、昭和の初期の近代建築が集まっている中央通りの部分です。
仲町から本川越までぶち抜いた通りであるが、本来の街道というのは、札の辻から仲町そして、
左に折れて、商工会議所からまっすぐ所沢街道に繋がるというものでした。今その中央通りでは今、町の人たち
が昭和の町づくりという運動を始めています。
道路は、入間川街道、東京(川越)街道、坂戸方面、松山方面、上尾方面というように、十か町から放射状に
広がっていますが、また、久保町から東西にのびる道は昭和になってから新しく出来た道でもあります。
川越街道は江戸時代からの街道で、日本橋から出発した中山道が板橋宿の平尾追分で分岐し川越まで至る
道です。「九里(栗)よりうまい13里半(さつまいも)」、川越は江戸から13里の道のりです。中心商業
地域はそのまま商業系用途地域に、武家地だったところはそのまま住宅系用途地域になっていますが、
人間関係など引き継いている部分もあり、新しいアイデアやしくみなどがか簡単には実現しにくいという
難しい一面も持っています。(川越文化コンシェルジュ講座より)
江戸の雰囲気の残る川越
川越の春まつりがはじまりました。
小江戸川越春の舟遊や蔵造りの町並みをいかした江戸の鳶はしご乗り、
川越藩火縄銃鉄砲隊の演武・マーチングバンド・和太鼓・大道芸など、
江戸情緒が感じられる町として春は賑わいをみせています。
江戸東京の下町情緒が消えゆく中で、川越には江戸そのもの、
庶民文化の情緒があふれるところが残っています。先日火事があり
ましたが、菓子屋横丁では、いちばん栄えた時には80件ほど
菓子問屋が並んだといいます。関東大震災のあと東京のお菓子屋さんから
たくさんの注文があって、新河岸川の舟でどんどん運ばれてゆくときも
ありました。
戦争がはじまって一気に衰退してゆき,終戦後、昭和30年代、
まるひろデパートが蔵造りの町並みが駅の方に移って、町並みが
さびれていったいう現実がありました。しかしその後、こんな場所がま
だ川越にあるのかということで、東京の人たちが見学にくるようになって、
歴史観光都市川越ができ始めていき、現在の活気につながっています。
それでは人気の秘密は何でしょう。それは江戸の雰囲気を残しているからです
大河ドラマで有名になった春日の局の化粧の間が残っているのが、
川越の喜多院です。川越は当時の大火があって、喜多院まで焼けて
しまったのですが、その時の喜多院の住職は天海僧正で、徳川家康が
非常に尊敬した方でありました。
家光も自分の父親である秀忠より、おじいさんである家康候を非常に
尊敬していましたので、喜多院が焼けた後、天海のお住まい、坊さんたち
の修行の場をすぐつくる必要があるだろうと、江戸城紅葉山の御殿を解体し、
新河岸川舟運を利用して運び、移築しました。その中に家光候の誕生の
間があります。
家光は生まれて乳母、春日の局に育てられます。本名、福といいますが、
父は明智光秀の筆頭家老の斎藤利三、母は稲葉一鉄の娘ですが、その化粧の
間が喜多院に残っています。
建物は、江戸初期の建物であり、安土桃山期の建築様式を残しています。
今現在、天皇陛下がいらっしゃいます江戸城の紅葉山周辺にしてもこの
時代の建物は残っていないのですがそれが川越にあるのもひとつの魅力と
考えられます。(川越文化コンシェルジュ講座より)
あけましておめでとうございます。
あけましておめでとうございます。本年2016年よろしくお願いいたします。
キャリアドリームを実現してには、次の3つのベクトル、方向性が必要です。
1 トップランナーの言葉、偉人・先人の残した文化に学ぶ、外に向かって向上を目指すベクトル
2 自分を深く掘り下げる、内面を充実させるベクトル
3 周りの人々とつながる、喜びをシェアする円のつながり
今年もこの3つの側面から、さまざまな活動を広げてゆきたいと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
今年の一年を振り返って
年末というのは、毎年のことながらやることが多くてなかなか大変。
たとえば12月28日に、神棚や門松などの飾り物、ぎりぎりセーフ!
29日にはあらゆる掃除をして、清掃センターまでゴミ出しぎりぎりセーフ!
30日は年賀状を書いて出さなくてはということで何とかぎりぎりセーフ!
その後、またお正月料理とかなんだかんだと、毎日閉め切りがある感じ。
自分を追い込まないと、何も出来ない、しないということでもあるかも。
さて、年末に今年一年を振り返って、みました。
今年一年は、とても素晴しいスタートの年でした。
まず、今までやってきたことを整理して
本にまとめてゆくことになりました。
また、外国人観光客が増える中、地域の文化を発信しようと、
川越文化コンシェルジュ基礎講座を市の施設の講座として立ちあげ、
その参加者から市民活動がはじまってゆきました。
さらにあけぼのホールが10周年となった今年、毛利巨塵さんをはじめとする
芸術家のプロデユースや地域のシニアの方々との歌のサロン、ジュニアコーラスの
演奏旅行、高大連携で高校での音楽授業なども行いました。
その上で、キャリア・ドリームという教育事業をはじめ、自分の興味関心を
全て行ないながら、社会のニーズとマッチさせて、仕事をつくったり、人と
関わったりしながら生き方をつくってゆくいことが、若者をはじめ
大切になってゆくのではと実感しています。
新年は2月10日より、夫の寺島悦恩が、麻布十番ギャラリーで書の個展を
することになり、そのサポートをしてゆきたいと思います。
あけぼのホール創立10周年
おかげさまで、あけぼのホール創立10周年になりました。
ショッパーから取材の依頼があって、そうか今年10年になるんだ
と気づいた次第。なかなか10年続くのは珍しいのだとか。
フラットな空間なので写真にとってみると、演奏者によって様々なレイアウトを
楽しんでいるようです。
人にものを教えることは出来ないが相手の中にある力を見いだすことはできる。
You cannot teach a man anything you can only help him to find it with in himself.
人にものを教えることは出来ない、できることは、相手の中にすでに
ある力を見いだすこと、その手助けである。
(イタリアの天文学者 ガリレオ・ガリレイ)
自分を知るキャリアドリームワークは、普段あまり授業に関心のない
学生も皆真剣に取り組んでくれました。学生たちの感想からは、
思った以上に人生の過程でいろいろな事をやってきた自分を発見し、
自分は幸せだ、自分が好きになった、という意見が多かったの
ですが、中には、自分の弱い部分に注意がいってしまう人もいました。
また過去のことはいくらでも掘り下げられるのに、未来のこととなると
不安しか浮かばないという学生もいました。普段あまり自分の将来をきちんと
考えていない学生にとっては、とても頭を使って疲れるけれど大事だという
感想が帰ってきました。
最後に20歳の学生たちに半年後の未来へ自分への手紙を書いてもらいました。
そのいくつかを紹介します。
やりたい仕事が見つかっていますか?貯金をしっかり、やりたいことは迷わずやりましょう。
ちゃんと学校いっていますか?彼女と上手くいっていますか。お金は稼いでいますか。
ファッションが好き。絵は上手になりましたか。コミュニケーション能力を高めましたか。
やりたいことがいろいろあるので迷わずに前へ進んでください。
今のまま目の前の仕事に一生懸命取りくめば認めてもらえるはず。大変でもドラマや
舞台といった大好きな仕事ができていることを忘れず、感謝の気持ちをもって。周りの人や
家族、友人を大切に。
半年後の自分は資格勉強をしつつ、将来のこと考えはじめています。
何があっても揺らぐことのない強い自分の意志を持っていますか
不条理なことでもけして否定も肯定もせずに、誰に対しても中立でいてください。
ダイエットはどう。大学卒業したら日本で就職する、それとも国に帰る?
そろそろ就職を考えなくては。旅行のガイドをやりたい。
一日一日を大切にして絶対後悔しない生き方をしたい。
こんなやりとりから、ひとりひとりの学生の様子が見えてきます。
キャリアドリームは、30年にわたって1000人以上もの教育に
さまざまに関わってきた中から生まれたものです。
ドリーム・キャリアをはじめましょう。
川越祭りと日本の祭り
東京、池袋から電車で30分という都市、埼玉県川越市には、現代の日本の数々のまつりのなかでも、江戸の天下祭の様式や風流を伝える貴重な都市型祭礼、「川越まつり」があります。国の重要無形民族文化財に指定されており、今年も10月17日、18日に開催されました。多数の豪華な山車が市内を練り、お囃子を交わす「曳っかわせ」が迫力満点で、2日間で90万人もの観光客が訪れる首都圏最大級のお祭りです。
この祭りは、そもそも江戸時代、川越城の城下町の総鎮守・川越氷川神社の例大祭であり、初日の「神幸祭」では、神様が神輿にのり、城下町を廻るというものでした。つけ祭りの山車行列はといえば、神様を喜ばせるためにつき従うものでした。現在、川越市内にある山車の数は、管理・運行する町ごとに28台と川越市所有が1台の合計29台ですが、厳密な数はわからず、実数35、36台まで数えられています。山車は高さ8メートル、重さ4から5トンもあります。
江戸時代、女性は山車には参加できなかったのですが、当時は、山車よりもそのうしろにあった踊り屋台に人気がありました、山車という町のシンボルをのせて行くのですが、その後に踊り屋台があって、さらに、そのうしろに仮想行列があるという大変大きな行列でした。ひとつの町内で大変おおきな行列が出来るということで、今以上に大変お金がかかったのです。
現在、山車を引く行列は、他の町に入る際に通行許可をもらう「先触れ方」が先頭で、小さな女の子たちが男装する「手古舞衆」(もともとの江戸の天下まつりでは、深川の芸者衆が男装して参加していた)、祭礼役員が続き、その後に「宰領」、つまり、運行責任者が来て、町内の人々が曳くのです。引き綱の長さは約40メートル。川越の山車の特徴としては、お囃子舞台から上が360度水平回転すること、もう一つは、人形や上段鉾が山車の本体内に収納することができ、つまり伸縮自在で、電線の下を通るのに便利だということもあります。
市の中心部全体をステージに、市民が衣裳を着て山車を曳き、山車の上でお囃子を演奏する周辺のは農村部の人々、こんなふうに、川越まつりは、町全体を舞台として老若男女が参加する壮大なページェントなのです。
ところで、山車は、地方によって、鉾(ほこ)とか、曳山(ひきやま)、檀尻(車楽、だんじり)など喚び方は代わります。もともと山車は大変小さなもので人が担いでいました。それがだんだん飾りが増えてきて、二輪車にして曳き、さらに大きくなりい牛2頭が曳くというのが江戸の形です。
また、江戸時代、祭礼において、山車の人形は神のよりしろとして、人形に神様が宿ると考えられていて、山車で一番大事にされています。
川越まつりの人形で、江戸時代にできたものは5つあります。一番古いのは喜多町の俵藤太秀郷(1826年以前)、鍛冶町(今の幸町)の小狐丸で、1835年に修復したという記録があります。次が志多町の弁慶 (1856年)。仲町の蘭陵王と松江町2丁目の浦島(1862年)。
ちなみに俵藤太秀郷は、藤原家(北家)家祖で、平安時代の中期に活躍した伝説のイケメン武将だそう。蘭陵王は、武勇に優れていたが、美男が禍して戦の士気が上がらなかった中国の北斉の羅陵王、長恭が、怪異な仮面をつけて出陣し見事、勝利、その祈念の舞を踊ったという雅楽の題材から。小狐丸は能楽の題材。京都三条の小鍛冶宗近が勅命の刀鍛冶の成功を稲荷明神に祈願したところ明神が現れ、手助けしたという言い伝えから。弁慶武蔵坊弁慶は、平安時代末期五条の大橋で義経と出会って以来、義経に生涯忠誠を就くし武力にすぐれた僧兵の話。浦島太郎は、ご存知のおとぎ話です。
十五夜にセットでお月様は縁起が良い
昨日は、十三夜だったのですね。今日はちょっと曇りがちの月の写真です。
十三夜とは、十五夜の「のちの月」の十三日目の月のことで、十五夜の次に
美しい月とされています。それで別名が「のちの月」。
ちなみに十五夜は、中秋の名月といわれる旧暦8月十五日の満月のことです。
旧暦では、1月から12月まで。初春、仲春、晩春、初夏、仲夏、晩夏、
初秋、仲秋、晩秋、初冬、仲冬、晩冬と季節を分けておりました。今の暦で
1ヶ月半位ずれるので、「十五夜」、中秋の名月は9月から10月になります。
この頃収穫されるおいもをお供えすることから「芋名月」とも言うそうです。
そして、その次に美しいとされる、翌月の「十三夜」とセットでお月見を
すると縁起が良いとされています。片方だけ見る「片見月」はよくないとされました。
この時期のお供えから「栗名月」とか「豆名月」ともいわれます。
家によっては、おまんじゅうだったり、お団子だっだり様々ですよね。
さらに翌月の十日夜(とうかんや)には、東日本を中心に収穫祭が行なわれ、
稲の収穫を祝ってお餅をついたり、様々な行事が行なわれていました。
この十五夜、十三夜、十日夜の3つのお月見をすると大変縁起が良いそうです。
月読(つくよみ)の 光に来ませ あしひきの 山きへなりて 遠からなくに670(お月さまの光でいらっしゃいませ。山が隔てて遠いというわけでもありませ
あけぼのホールで和楽器とソプラノのコンサート
5/10/17 に公開
川越まつりの当日の17日に行なわれたコンサートですが、満員御礼でした。はじめてあけぼのホールに尺八と琴、十七絃が響きました。
映像は「宴の森」の一部です。あけぼのホールは大変に響きがよく、プロの演奏家が大変喜ぶ音楽スペースです。音響の素晴らしさを活かした活動を今後も行なってまいりたいと思います。
https://youtu.be/lw6SI2EYjVA