川越①寺:喜多院3

客殿にはいってみよう。私たちが入る玄関は実は庫裏、お勝手口だったところだ。その左側を見ると真ん中に灌木があり、そこをぐるっと回ると。敷台があり、偉い方がのる御乗り物、籠が置かれていたた。敷台は非常に高い位置にある。乗り物から履物を変えないでそのまま建物の中にはいるようになっている。その階段をあがると、御殿のほうまで畳廊下でつながっている。この畳廊下の正面のぼりきいたところに使者の間がある。

嘉永5年の喜多院の絵図である。この赤く囲まれている部分が昔の喜多院の敷地を表している。喜多院は、4万8000坪があった。徳川家康自らが縄張りをして敷地を与えた。その敷地が縮められでしまったのは、明治新政府になってから、薩長新政府の指示によってである。新しい国づくりをするために大変な財力が必要なので、多くの人が投資しているにもかかわらず協力しないのは何事だということであった。

まして15代将軍の徳川慶喜が新政府に恭順の意を評して、勝海舟に全権委任し、江戸城を無血開城という形をとったのだから、喜多院の土地も払い下げをせよ、という指示があったのだ。現在の敷地で以外は払い下げられて、その収入は政府に吸い上げられてしまった。これも川越のひとつの姿である。川越は幕府直結の藩なので、新政府以降はかなり冷遇されてきたようだ。

現在、山門から入ると右手に五百羅漢があって、喜多院の本堂と別に潮音殿、慈恵堂、大師堂ともよばれている建物がある。火災の後立てられたものである。それに対して、客殿は家光候の御殿。潮音殿と客殿の間には何ら渡り廊下などもなかった。今はつながっていますが、それは明治以降に作られたものである。

山門の近くに本地堂というお堂があった、紋蔵庵お菓子屋さんのところの細い道をはいってちょっと左側はいったあたり、徳川家康の本地仏は薬師如来なので、薬師堂を本地堂といい、本地堂は南を向いているお堂であった。明治時代になると壊さざるを得ない状況になった。

ところが、当時、西郷隆盛の征韓論があり、旧江戸っ子たちが西郷産頑張れとフィーバーするという記録が残っているほど、西郷人気が高かった。新政府は、戊辰戦争の後、上野の山を全山没収してしまい、洋風公園に変えてしまってしまい、博物園(動物園)をつくってしまった。それが恩賜公園(天皇からいただいた証を残して)の由来である。西郷隆盛は、大久保利通などとの仲違いがあったのだが、寛永寺は江戸ッ子たちには憩いの場として、開かれたお寺だったのでその復興を願う人々も多かった。 その時に、新政府としては、公式表明をすることが立場的にできなかったので、それを暗黙に許したのだが、しかし、寛永寺に建物を建てる資源が全くなかったので、当時の喜多院の住職がどうせ壊さなくてはいけないので、本地堂を上野寛永寺に寄付しよう、ということになった。現在の上野の寛永寺根本中道は川越から喜多院の本地堂が移築されて出来た建物である。明治9年から12年にかけて移築され、国の重要文化財になっている。ここにも江戸と川越のつながりがあるということを知っていただけたらと思う。

これは明治30年の黒門から山門を見たところ。ここに塔があるのがわかりだろうか。これが多宝塔です。日吉(ひえい)神社のところにたっていたが、それが大正13年道路を切ってしまって全部なくなってしまった。払い下げのことがあったので、多宝塔も壊して、敷地内に移動した。昭和50年ぐらいまでは、潮音殿から客殿にいく間の通路のところにまるで竜宮城のように石で門があってその上に塔が立っていたのを覚えていらっしゃるかたもおられるでしょうか。その移動した時に、地面の中からまが玉、くた玉がはいった石の箱が出てきたす。中をあけると墨書で天海の名前が書いてある。寛永15年の火災のあと、ここに多宝塔を作った証である。喜多院に保管してあるので、機会がありましたら見て欲しい。

この茶畑からは、発掘調査を行った時に、室町時代の土抗(墓)を2基発見した。また多数の板碑が出てきて、室町時代にお寺として機能していたんだことが証明される。そんなことから明治30年の写真からお寺としてお茶畑、桑畑をしていたのではないかとも考える。(川越文化コンシェルジュ講座より)