SDGsを歌おう「にじのちきゅうプロジェクト」Online 合唱・演奏にあなたも一緒に参加してみませんか。

「にじのちきゅうプロジェクト」体験会行いました。

歌と言葉には不思議な力があります。本気で美しい地球を取り戻そうという想いを一つにしてみんなで歌って音楽を楽しみながらSDGsに取り組む、そんな「にじのちきゅうプロジェクト」にあなたも一緒に参加してみませんか。

今回「にじの地球」を歌や楽器、パフォーマンスで一緒に参加してくださる個人や団体を募集します。音楽を楽しんだり発信したい方々が繋がって協力しあえるきっかけを作り、SDGsの理念のもと、地域の多様な文化芸術などの活動を発信できる仕組みを私たちは作ってまいります。

障害のある方も楽譜が読めない方もアマチュアもプロも誰でも参加できます。オンラインなので、リアルには参加できない遠方の方も一緒に、誰も取りこぼさないSDGs の目標を達成してまいります。そして来年以降、更なる活動に発展してまいります。

参加方法は簡単です。イヤホンで音源を聴きながら、ご自身の歌声のみをスマホなどで録音して指定のURLに送っていただきます。また、皆さんのSDGsのメッセージやご自身の写真や動画なども送っていただき、その素材をもとに、プロの動画編集者がオンライン動画を作成、オンライン上で発表、配信いたします。

その際にFacebook等のサイトで皆さんの活動のご紹介や意見交換などをして、つながりを深めるオンライン上の場も設定してまいります。コロナ後には、オフ会も計画してまいりたいと思います

にじのちきゅうを歌ってみよう(体験会)

以下の日程で、楽曲『虹の玻璃(にじのちきゅう』を練習しながら歌ってみる体験ができます。3回の連続講座で、発声、メロデイやコーラスパートの練習、録音の仕方までレクチャーします。

日程 6・19(土)6・26(土)7・3(土)時間9:00〜9:45オンライン講座

対象 SDGsを歌って表現したい方(合唱経験の有無は問いません)。楽器やパフォーマンスも歓迎。

Facebook申し込み・問い合わせページ https://www.facebook.com/nijinochikyu

楽曲動画 https://youtu.be/taxcD0msT3Q

詳しくは以下のチラシをご覧ください。

「生きる」(谷川俊太郎作詞・小林範子作曲)の完成

谷川俊太郎氏のすばらしい詩「生きる」に小林範子が曲をつけました。コロナの中にある世界にむけて、この歌でみなさんに生きるエールをおくります。
「生きる」ということは、今この瞬間の、なにげない、ごくありふれた日常のささやかなできごとに目を向けて大切に味わうこと。音楽が詩に寄り添うようにシンプルな旋律の繰り返しの中、語られていきます。

YouTubeにあげてみましたので、感想をよろしくお願いします。

「生きる」 谷川俊太郎

生きているということ

いま生きているということ

それはのどがかわくということ

木もれ陽がまぶしいということ

ふっと或るメロディを思い出すということ

くしゃみをすること

あなたと手をつなぐこと

生きているということ

いま生きているということ

それはミニスカート

それはプラネタリウム

それはヨハン・シュトラウス

それはピカソ

それはアルプス

すべての美しいものに出会うということ

そして

かくされた悪を注意深くこばむこと

生きているということ

いま生きているということ

泣けるということ

笑えるということ

怒れるということ

自由ということ

生きているということ

いま生きているということ

いま遠くで犬が吠えるということ

いま地球が廻っているということ

いまどこかで産声があがるということ

いまどこかで兵士が傷つくということ

いまぶらんこがゆれているということ

いまいまが過ぎてゆくこと

生きているということ

いま生きてるということ

鳥ははばたくということ

海はとどろくということ

かたつむりははうということ

人は愛するということ

あなたの手のぬくみ

いのちということ

春の庭で〜今日の一日

4月後半は庭に一気に花が咲き始めます。

春の日差しとともに

どんどん芽吹いて

一気に春の花のピークがやってきます。

バラ、モクレン、アイリス、ツルニチソウ、スズラン

毎日新しい花が咲くのですが

せっかく一生懸命咲いてくれているのだから

こちらもその気持に応えなくてはと

毎日草むしりをしたり

枝の手入れをしたり

草むしりをしたり、

水を撒いたり、

その間に

次に出ている植物の

枝を整えたり

とにかくも

春の庭は忙しいのです。

でも今年はこの

コロナの感染で自粛が続く中

庭の花の手入れをしてみて

その手応えに癒やされました。

近所の方が来られて

スズランを分けてね、と

楽しい会話も生まれます。

ズームを設定してみました

おはようございます。昨日の雨から一変して、今日は快晴。庭の手入れをしようと思ったらちょっと寒かったです

昨日はズームを導入してみました。ズームの良さはその場で話をしながら映像資料と音声、パワーポイントなどを切り替えながら一つの素材としてまとめられてコミュニケーションできることかとおもいます。リスクも指摘されてますけれども基本的には、最新のバージョンにすることとパスワードなどを設定することで対応できそう。

企業でオンライン勤務をしている方は毎日使っているかもしれませんが、私たちのような全部自分でやらなければならない中、せっかく立ち上げたので備忘録として、ズームを立ち上げたのかを備忘録を書きました。

パワーポイントも簡単に表示

Macブックの場合は、カメラも内蔵マイクも入っているので、特に機材を購入する必要もなく、ズームをダウンロードしたら、GoogleやFacebookでサインインして、ミーティングを立ち上げ完了。

ミーティングを立ち上げたらマイクとスピーカーはシステムと同じを選択すると、音声が正常になります。

セキュリティー上の設定しては、講義の場合は画面の共有と待機室の有効化をはずしました。

DVDの映像も写せます

DVDなどは外部端子からUSBで接続し、Quick Time Playerで新規ムービー収録を立ち上げます。これらをパソコンのデスクトップ上に配置しておきます。

ここからが本名ですが画面の共有のボタンを選択して、デスクトップ画面つまりモニターの映る画面とPowerPoint等の資料の画面、およびビデオ等の外部USB画面、さらにYouTubeなどの動画を切り替えて画面の共有を図ります。

私の場合はこれをレコーディングし、ミーティング終了と同時にMP 4にして、

プレミアで編集します。

意外と簡単にここまでの作業が出来ました。

自宅サロン&オフィスを快適にリノベ

自宅で過ごす今は自宅サロン&オフィスのリノベを楽しんでいます。
大量の本を片付けて、捨てられなかった書類類もようやく処分して。
ひとつひとつ思い出があるので、なんとなく捨てられずに来ましたが
テレワークの流れが長期化する中、未来のワークを先取りして
オンラインでのレクチャーやミーテイングなど始めて行く予定です。
そのためには、まずワークスペースが快適でなくては、ということで
あけぼのホールに続き、あけぼのサロン&事務所のリノベに挑戦。
まずは本の移動からはじまり、レクチャールームとして快適なスペースに
なるように模様替えしてみました。

ライブラリーと資料室が出来ました

あけぼのホールの別棟2Fにライブラリーを作っています。このコロナ騒ぎの中でようやく自宅にこもって完成しそうです。

大学の先生をしていた主人が退職して、大量の書籍が自宅にやってきて家が倉庫状態に。ストレスが溜まってしまう中、大量の書籍やビデオなどを整理して収める場所をつくり、さらにはライブリーもつくり活用できたらと思っています。

実際に作業を始めたのは3年前、その後どんどん書籍が増え、またパニック状態に。なにせ書籍が重たい。運べないので、学生さんに休みを利用してすこしづつバイト手伝をしてもらい、なんとかライブラリーの完成に近づきました。

あけぼのライブラリー
あけぼのライブラリ

ちょうどコロナ騒ぎで、外出もままならないので、ここで一気に片付けようということになり、昨日までにようやく完成の目処が。

1階の倉庫の壁には自分たちでスタイルフォームを張り込み、その上に大量のビデオを並べました。あとはDIY で床を貼れたら。

倉庫は資料室に返信

シャッターを外してドア設置と、エアコン設置だけは業者さんにお願いしようと思っていますが、今どなたもとても多忙そう。

自宅待機期間中に自宅修理をしようと考えている方も多いのでしょうか。

今この瞬間に集中する

非常事態宣言が出され、皆さん普段は外で仕事をされている方もふくめて家にいる時間が多いでしょう。こんな中で自分とむきあって、今できることを楽しむことができたらと思いこれを書いています。

自分と向き合うというと、私などは、人生を振り返って、あの時、ああすれば良かったなどと、過去の自分の行動を過度に悔やんでしまったりすることがばかりでした。また、将来への不安にとらわれてしまい、こうなったらどうしよう、と起きてもいないことについて悩んでいました。

でも考えてみれば、人生は今しかなくて、過去も未来も頭の中の想像上の産物です。何度、過去のことを思っても過去を変えることもできませんし、未来を心配しても仕方がありません。

結局は、心穏やかに満ちたりた気持ちで一日を過ごすには、今この瞬間に集中するしかないのです。この今に集中することによってしか、道は開かれないのです。心からそう思いました。

未来にこうなりたいから今をこう生きるという生き方、いわゆるバックキャステイングのような生き方も素晴らしいとは思いますが、もっと未来が思いがけないものでもよいのではないでしょうか。

今、心から没頭したいことに没頭する、ワクワクしながら一日を過ごせたら、素敵。そう思って今日一日をすごしたいとおもいます。

もしかしたら、明日は全然違うことにワクワクしてしまうかもしれません。私などは、ものすごく色々なことに興味が行ってしまう方なので、あれこれ気が散って何をやっているか、わからなくなりそうな時もあります。

そんな生き方でも続けていくと、それが自分らしいオンリーワンのキャリアになっていることに気づきます。

今日は天気が良いから庭の手入れをしようとか、今日は部屋の模様替えをしようとか、あの人に連絡してみようとか、何かひとつ今ワクワクすることを一日のうちにとりいれられたら、満足感も増すでしょう。

また仕事に関係のあるひらめきもすぐに実行できたら、ますますひらめいて予想外の展開になったということもあります

皆様もぜひ、実行してみてください。

令和万葉集:新元号の令和は万葉集から

新元号が発表されました。「令和」という元号は、万葉集から、
とったものということです。
新春の令月にして気淑く風和らぎ、梅は鏡前の粉を開き、
蘭ははい後の香を薫らすという出典から
取られました。大伴旅人の和歌です。

万葉集巻第五 815~
梅花(うめのはな)の歌三十二首并せて序

天平二年正月十三日に、
大宰師の大伴旅人の邸宅に集まって、
宴会を開きます。
初春の、空気はよく風は爽やかに、
梅は鏡の前の美女が、
装う白粉のように開いて、
蘭は身を飾った香のように薫っています。

それだけでなく
明け方の嶺には雲が移り動き、
松は薄絹のような雲を掛けて
きぬがさを傾け、
山のくぼみには霧がわだかまり、
鳥は薄霧に封じ込められて
林に迷っています。
庭には蝶が舞い、
空には年を越した雁が帰ろうと飛んでいます。

ここに天をきぬがさとし、
地にとして、膝を近づけ酒を交わし
人々は言葉を一室の裏に忘れ、
胸襟を煙霞の外に開いて、
淡然と自らの心のままに振る舞い、
快くそれぞれがら満ち足りています。

これを文筆にするのでなければ、
どのようにして心を表現したら良いのでしょう。
中国にも多くの落梅の詩があるのですから
いにしへと現在と何の違いがあるのでしょう。
庭園の梅を詠んで和歌を作ろうではないですか。

この漢詩風の一文は、
梅花の歌三十二首の前につけられた序で、
書き手は不明ですが
おそらくは山上憶良(やまのうへのおくら)
の作かと思われます。


その内容によると、天平二年正月十三日に
大宰府の大伴旅人の邸宅で
梅の花を愛でる宴が催されたとあります。
このころ梅は大陸からもたらされたものとして
非常に珍しい植物だったようですね。当時、

大宰府は外国との交流の窓口でもあったので
このような国内に無い植物や新しい文化が
いち早く持ち込まれる場所でもありました。

この序では、前半でそんな外来の梅を愛でる宴での
梅の華やかな様子を記し、ついで
梅を取り巻く周囲の景色を描写し、
一座の人々の和やかな様を伝えています。
そして、中国にも多くの落梅の詩があるように、
「この庭の梅を歌に詠もうではないか」と、序を結んでいます。


この後つづく三十二首の歌は、
座の人々が四群に分かれて八首ずつ順に
詠んだものであり、各々円座で回し詠みしたものとなっています。

大伴旅人が太宰府を去ることになって、
その別れを偲んだ、万葉時代の旅だの和歌につけた
曲です。「から人の衣染むといふ」
https://youtu.be/VnnFo4PgjQo
という曲を以前作りましたが、

新元号に万葉集の言葉が生かされて
喜びもひとしおです。

東京五輪ボート会場は彩湖に。水上交通で経済効果大

東京五輪ボート会場は彩湖に。水上交通で経済効果大

 

小池東京都知事のオリンピック会場変更計画で、彩湖案が浮上しました。

東京五輪ボート会場は彩湖にすることで、水上交通やサイクリングロードの

整備ができれば、経済効果は大きいのではないでしょうか。江戸時代は舟運で

にぎわっていたこの界隈をもう一度活かすことができたら、交通集中の問題の解消や

舟運による観光、荒川沿いに都心、つまり東京湾から埼玉ベッドタウンまで一気に

再開発が進み、美しい水上都市が出現するかもと夢が膨らみます。

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① 彩湖から荒川沿いに浅草や築地、デイズニーランド、観光客のメッカへ海上交通を開く。

彩湖から都心へは、荒川沿いに、墨田川を経由して浅草、築地を通り東京湾へ注ぎます。

すぐ近くにある戸田ボート場があり、また荒川本流は江戸川ボートレース場など通りながら

デイズニーランドや葛西臨海公園を見ながら東京湾へ注ぎます。

豊洲も築地も東京の都心へ一気に海上交通で彩湖往復事ができるようになるのです。

これが単にひとつのオリンピック会場を整備するだけでなく、また築地も動かすことなく

東京エリアに新しい経済価値を生み出す、素晴らしいインフラ整備につながるはずです。

浅草やデイズニーランド、こんな観光客の集まるメッカから直接、ボートで彩湖まで短時間で
往復する事ができるのです。

 

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② サイクリングロードや北部への水上交通の見直し、水害対策も一気にすすむ

さらに彩湖から先は、荒川や支流沿いにサイクリングロードなどが整備されており、

こちらも水上交通と一緒に新たな観光やまちづくりの活性化につながってゆくことが

期待できます。

彩湖自体が都心の災害時の水瓶であるとか、洪水時は使用できるのかという声もありますが

上流地域の水害への整備対応と併せて進めてゆくことで、しっかりした水害対策を予算化して

同時に実施することができ、近い未来に良さ予想される災害への準備も格段にすすみます。

③ 都心から海上をボートで最短20分。彩湖は近い

埼玉県ボート協会理事長の和田卓氏によると、オリンピックの会場としての9つのすべての用件をみたしており、かつ

都心から海上をボートで最短20分で到着することができるといいます。

和田卓は、彩湖に誘致した際の利点をHPで熱く語っています。

http://rowingfield.net

私の地元川越からは、昔は舟運交通が発達していて、舟で浅草までゆくことができました。

今、世の中で建物のリノベーション、地域の再生など、以前あった価値の見直しが進み

また、震災の際には古地図などをみながら土地の安全性も再考されつつあります。

そんな中、ベニスのように、東京も水の都であった往時の姿に一歩でも近づくことができたら

と夢がふくらみます。

川越①寺:喜多院3

客殿にはいってみよう。私たちが入る玄関は実は庫裏、お勝手口だったところだ。その左側を見ると真ん中に灌木があり、そこをぐるっと回ると。敷台があり、偉い方がのる御乗り物、籠が置かれていたた。敷台は非常に高い位置にある。乗り物から履物を変えないでそのまま建物の中にはいるようになっている。その階段をあがると、御殿のほうまで畳廊下でつながっている。この畳廊下の正面のぼりきいたところに使者の間がある。

嘉永5年の喜多院の絵図である。この赤く囲まれている部分が昔の喜多院の敷地を表している。喜多院は、4万8000坪があった。徳川家康自らが縄張りをして敷地を与えた。その敷地が縮められでしまったのは、明治新政府になってから、薩長新政府の指示によってである。新しい国づくりをするために大変な財力が必要なので、多くの人が投資しているにもかかわらず協力しないのは何事だということであった。

まして15代将軍の徳川慶喜が新政府に恭順の意を評して、勝海舟に全権委任し、江戸城を無血開城という形をとったのだから、喜多院の土地も払い下げをせよ、という指示があったのだ。現在の敷地で以外は払い下げられて、その収入は政府に吸い上げられてしまった。これも川越のひとつの姿である。川越は幕府直結の藩なので、新政府以降はかなり冷遇されてきたようだ。

現在、山門から入ると右手に五百羅漢があって、喜多院の本堂と別に潮音殿、慈恵堂、大師堂ともよばれている建物がある。火災の後立てられたものである。それに対して、客殿は家光候の御殿。潮音殿と客殿の間には何ら渡り廊下などもなかった。今はつながっていますが、それは明治以降に作られたものである。

山門の近くに本地堂というお堂があった、紋蔵庵お菓子屋さんのところの細い道をはいってちょっと左側はいったあたり、徳川家康の本地仏は薬師如来なので、薬師堂を本地堂といい、本地堂は南を向いているお堂であった。明治時代になると壊さざるを得ない状況になった。

ところが、当時、西郷隆盛の征韓論があり、旧江戸っ子たちが西郷産頑張れとフィーバーするという記録が残っているほど、西郷人気が高かった。新政府は、戊辰戦争の後、上野の山を全山没収してしまい、洋風公園に変えてしまってしまい、博物園(動物園)をつくってしまった。それが恩賜公園(天皇からいただいた証を残して)の由来である。西郷隆盛は、大久保利通などとの仲違いがあったのだが、寛永寺は江戸ッ子たちには憩いの場として、開かれたお寺だったのでその復興を願う人々も多かった。 その時に、新政府としては、公式表明をすることが立場的にできなかったので、それを暗黙に許したのだが、しかし、寛永寺に建物を建てる資源が全くなかったので、当時の喜多院の住職がどうせ壊さなくてはいけないので、本地堂を上野寛永寺に寄付しよう、ということになった。現在の上野の寛永寺根本中道は川越から喜多院の本地堂が移築されて出来た建物である。明治9年から12年にかけて移築され、国の重要文化財になっている。ここにも江戸と川越のつながりがあるということを知っていただけたらと思う。

これは明治30年の黒門から山門を見たところ。ここに塔があるのがわかりだろうか。これが多宝塔です。日吉(ひえい)神社のところにたっていたが、それが大正13年道路を切ってしまって全部なくなってしまった。払い下げのことがあったので、多宝塔も壊して、敷地内に移動した。昭和50年ぐらいまでは、潮音殿から客殿にいく間の通路のところにまるで竜宮城のように石で門があってその上に塔が立っていたのを覚えていらっしゃるかたもおられるでしょうか。その移動した時に、地面の中からまが玉、くた玉がはいった石の箱が出てきたす。中をあけると墨書で天海の名前が書いてある。寛永15年の火災のあと、ここに多宝塔を作った証である。喜多院に保管してあるので、機会がありましたら見て欲しい。

この茶畑からは、発掘調査を行った時に、室町時代の土抗(墓)を2基発見した。また多数の板碑が出てきて、室町時代にお寺として機能していたんだことが証明される。そんなことから明治30年の写真からお寺としてお茶畑、桑畑をしていたのではないかとも考える。(川越文化コンシェルジュ講座より)