川越祭りと日本の祭り

東京、池袋から電車で30分という都市、埼玉県川越市には、現代の日本の数々のまつりのなかでも、江戸の天下祭の様式や風流を伝える貴重な都市型祭礼、「川越まつり」があります。国の重要無形民族文化財に指定されており、今年も10月17日、18日に開催されました。多数の豪華な山車が市内を練り、お囃子を交わす「曳っかわせ」が迫力満点で、2日間で90万人もの観光客が訪れる首都圏最大級のお祭りです。
この祭りは、そもそも江戸時代、川越城の城下町の総鎮守・川越氷川神社の例大祭であり、初日の「神幸祭」では、神様が神輿にのり、城下町を廻るというものでした。つけ祭りの山車行列はといえば、神様を喜ばせるためにつき従うものでした。現在、川越市内にある山車の数は、管理・運行する町ごとに28台と川越市所有が1台の合計29台ですが、厳密な数はわからず、実数35、36台まで数えられています。山車は高さ8メートル、重さ4から5トンもあります。

江戸時代、女性は山車には参加できなかったのですが、当時は、山車よりもそのうしろにあった踊り屋台に人気がありました、山車という町のシンボルをのせて行くのですが、その後に踊り屋台があって、さらに、そのうしろに仮想行列があるという大変大きな行列でした。ひとつの町内で大変おおきな行列が出来るということで、今以上に大変お金がかかったのです。

現在、山車を引く行列は、他の町に入る際に通行許可をもらう「先触れ方」が先頭で、小さな女の子たちが男装する「手古舞衆」(もともとの江戸の天下まつりでは、深川の芸者衆が男装して参加していた)、祭礼役員が続き、その後に「宰領」、つまり、運行責任者が来て、町内の人々が曳くのです。引き綱の長さは約40メートル。川越の山車の特徴としては、お囃子舞台から上が360度水平回転すること、もう一つは、人形や上段鉾が山車の本体内に収納することができ、つまり伸縮自在で、電線の下を通るのに便利だということもあります。
市の中心部全体をステージに、市民が衣裳を着て山車を曳き、山車の上でお囃子を演奏する周辺のは農村部の人々、こんなふうに、川越まつりは、町全体を舞台として老若男女が参加する壮大なページェントなのです。

ところで、山車は、地方によって、鉾(ほこ)とか、曳山(ひきやま)、檀尻(車楽、だんじり)など喚び方は代わります。もともと山車は大変小さなもので人が担いでいました。それがだんだん飾りが増えてきて、二輪車にして曳き、さらに大きくなりい牛2頭が曳くというのが江戸の形です。
また、江戸時代、祭礼において、山車の人形は神のよりしろとして、人形に神様が宿ると考えられていて、山車で一番大事にされています。
川越まつりの人形で、江戸時代にできたものは5つあります。一番古いのは喜多町の俵藤太秀郷(1826年以前)、鍛冶町(今の幸町)の小狐丸で、1835年に修復したという記録があります。次が志多町の弁慶 (1856年)。仲町の蘭陵王と松江町2丁目の浦島(1862年)。
ちなみに俵藤太秀郷は、藤原家(北家)家祖で、平安時代の中期に活躍した伝説のイケメン武将だそう。蘭陵王は、武勇に優れていたが、美男が禍して戦の士気が上がらなかった中国の北斉の羅陵王、長恭が、怪異な仮面をつけて出陣し見事、勝利、その祈念の舞を踊ったという雅楽の題材から。小狐丸は能楽の題材。京都三条の小鍛冶宗近が勅命の刀鍛冶の成功を稲荷明神に祈願したところ明神が現れ、手助けしたという言い伝えから。弁慶武蔵坊弁慶は、平安時代末期五条の大橋で義経と出会って以来、義経に生涯忠誠を就くし武力にすぐれた僧兵の話。浦島太郎は、ご存知のおとぎ話です。