フィレンツェに思う

コロナの感染騒動で生活スタイルが一新してしまっています。その直前に家族でイタリアに旅行をしました。私は旅行が大好きで、それも自由な旅に味をしめてしまって、旅先で偶然素晴らしい場所を見つけたり、出会った外国の旅行者と感動をシェアしたりできる瞬間はなんとも最高です。まさかその後こんな事態になるとは、当時は思ってもみなかったのですが。

中世末期はヨーロッパもコロナに似たペストに繰り返し襲われ、そこに戦争や飢饉が加わり、人びとは大変な生活を強いられていたようです。検疫隔離を意味する英語のquarantineクアランタンという言葉は、そもそもイタリア語で隔離する日数40日を意味する数字。東方から船の来る港には、貿易の品々とともにペストもやってきたのですね。

資料によると、フィレンツェは、12世紀後半には、トスカーナ一帯で、最も財力のある都市としての地位を固め、1182年には、自治都市(コムーネ)として認められました。その後、有力商人の集まる組合による政府が樹立され、共和国としての体制が整ってゆきます。

そんな中、薬の行商人からはじめ、金融業、高利貸として力を発揮したのはジョバンニ・デ・メディチというメデイチ家の開祖。 中世の商人は、多額の現金をもって整備されていない街道をゆくような大変危険な旅をしていたのですが、現金を持たずに旅ができるように、危険を減らすべく、世界最古の為替を作り、全ヨーロッパに支店をつくりました。その資金力で、領主から自治権を買い、自分たちの政府をつくったということです。

その後、14世紀、貿易や金融業によって多額の富をたくわえたフィィレンツェは、自由都市として発展してゆきます。

金貸しはキリスト教では罪とされたのですが、蓄えた富を教会に寄付し慈善活動をすることで罪が贖われるという教えから、メディチの当主達は、教会をはじめ様々な建築物や分活動に多額の資金援助をすることになってゆきます。

シニョーリオ広場にあるベッキオ宮殿。フィレンツェの市民たちは、当時ここにに行政府をおき、身分や家柄でなく、才能や実力本位の社会をつくりげました。

フィレンツェの街の中心、サン・ジョヴァンニ洗礼堂では、洗礼堂の扉の制作にはじめて作家の腕を競うコンクール形式が導入され、そこで優勝したのはギベルテイ。かのミケランジェロが天国の門とよんだいうその扉の前にはいつも多くの人が並んでいます。

また隣接するサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の巨大な屋根は、底コンクールで負けたブルネルスキが再起をかけてとりくんだ建築なのですが、巨大なドームは柱のない構造であるにもかかわらず当時世界一の大きさだったのだが巨大な丸いドームは威圧感を感じさせることがありません。

それまでの中世と違って、個人がそれぞれの才能を生かして活躍できる時代がこのフィレンツエではじまっているのですね。

そして、金融、経済、自治といった社会の側面から文化、芸術にいたるまでそんな自由で人間的なところが、自由都市フィレンツエの魅力なのだなあと、石畳を歩きながら思います。

ただし、フィレンツエ市民は非常に自治の意識が高く、絶えずメディチ家を追放しようともしました。今もシニョーリア広場にあるドナテッロのダビデ像、ミケランジェロのダビデ像もそうした自治意識の象徴となっています。

駅前の広場から旧市街にはいる角にあるホテル、バリオーニ。古いフィレンツェ様式の部屋は.この地の職人のつくった木製家具にが並び、寄木細工の床に、高い格間天井、鉛ガラスの窓などが、はじめてこの地を訪れた者にもその素晴らしさの街にその素晴らしさの一部が十分に伝わってくるのです。

おみあげにマーブルペーパーを買いました。