江戸時代の町割りを残す川越の街並み

現在の場所に川越城が築かれたのは1457年のことです。

少し歴史の話をしますと、室町幕府は、足利一族を鎌倉公方として関東の支配権を与えたのですが
1455年5代鎌倉公方足利成氏は8代将軍足利義政に反旗を翻し、鎌倉公方を補佐する関東管領
上杉氏とも対立し成氏は本拠地を古河へと移し、古河公方となります。このように古河公方と堀越公方と
いう二人の公方が関東で対立するこになりました。
その際、鎌倉方の最前線として、岩槻、川越、江戸に拠点が置かれました。川越の中心は、それ以前は
入間川の河畔にあった河越の館でした。大規模に拡張されたのは江戸時代になってからです。
河越から川越という表記に変わったのも江戸時代になってからのことでした。

松平伊豆守信綱候が、この川越に殿様として来られた時の大きな仕事が、この川越城の整備と
十か町四門前郷分町(じっかちょうしもんぜんごうぶんちょう)という街並みの整備でした。
1638(寛永15)年の大火事の後のことです。

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山崎家別邸から庭を眺める

 

 

松平信綱の時代に川越は十か町四門前郷分町(じっかちょうしもんぜんごうぶんちょう)という、
近世の模範的な城下町の区割りを完成させました。その特色は東側は自然要害。田植えを
する時に腰あたりまで水に使ってしまので田舟を使って田植えをしていたのです。
西側は大地、家光の時代はまだいつ豊臣の残党、つまり真田など最後まで抵抗した
人たちが攻めてこないとも限らないということで、お寺はほとんど今の蔵づくりの
町の西に移動させられました。養寿院、行伝寺、蓮馨寺、妙養寺が四門前を形成しています。

今まちを歩くとなぜこんなにお寺が集中しているのかと思うでしょう。焙烙灸の妙昌寺などは、
もともと足利義満の時代には蔵造りのまちなみにありました。
いかに軍事的に安定した町にするかということを考え町割りを整えたのが信綱なのです。
この街並みは現在でもほとんど変わっていません。

川越の町並みで一番大きな変化をしたのは、昭和の初期の近代建築が集まっている中央通りの部分です。
仲町から本川越までぶち抜いた通りであるが、本来の街道というのは、札の辻から仲町そして、
左に折れて、商工会議所からまっすぐ所沢街道に繋がるというものでした。今その中央通りでは今、町の人たち
が昭和の町づくりという運動を始めています。

道路は、入間川街道、東京(川越)街道、坂戸方面、松山方面、上尾方面というように、十か町から放射状に
広がっていますが、また、久保町から東西にのびる道は昭和になってから新しく出来た道でもあります。

川越街道は江戸時代からの街道で、日本橋から出発した中山道が板橋宿の平尾追分で分岐し川越まで至る
道です。「九里(栗)よりうまい13里半(さつまいも)」、川越は江戸から13里の道のりです。中心商業
地域はそのまま商業系用途地域に、武家地だったところはそのまま住宅系用途地域になっていますが、
人間関係など引き継いている部分もあり、新しいアイデアやしくみなどがか簡単には実現しにくいという

難しい一面も持っています。(川越文化コンシェルジュ講座より)