令和万葉集:縦さにも カニも横さも やっとこそ 我はありける 主の殿戸に

大伴家持の歌日誌を収めた第18巻には、次のような歌があります。

縦にも横にも やっとこさ

ご主人様の下僕でござる

カニように 生きるのさ

作者は大伴池主です。大伴家持は、国守(県知事)として越中へと

赴任するのですが、そこには大伴の一門の旧知の大伴池主が国掾(じょう)

として任務についていました。国司の三等官、県庁なら総務部長クラスというところです。

時は、藤原中麻呂が台頭してくる頃で、名門大伴家を守っていくという

強い意志を二人は共有、歌ともだちとして交流していました。

後に、橘奈良麿による藤原仲麻呂打倒の乱に、池主は加わわるのですが、

このことが事前に発覚し、姿を消してしまい、これ以降、大伴家は衰えてゆきます。

それはさておき、ユーモラスなコトバ遊びが楽しめます。

 

 

縦さにも カニも横さも やっとこそ 我はありける 主の殿戸に

4132たたさにも かにもよこさも やっとこそ あれはありける ぬしのとのどに

「たてにもよこにも、ともかく私は下僕としてあったことだった。御主人であるあなたの御門にて。」

令和万葉集:この頃の 我が恋力 記し集め 功(くう)に申さば 五位の冠

最近 俺が女にどれくらいつくしているか

俺の恋の労力といったら、並大抵のものではないぞ

文書に書き起こしたら

きっと、五位の位階はもらえるくらいだぜ。

 

いわゆる力役も財物となりました。銭や稲など献納することで、

官位が与えられる献物叙位は多くあったのです。

そういう社会を背景におもしろおかしく詠まれた歌です。

この頃の 我が恋力 記し集め 功(くう)に申さば 五位の冠

3858このころのあがこひぢから しるしあつめ くうにまをさば ごゐいのかがふり

 

令和万葉集:勝間田の 池は我知る 蓮(はちす)なし しか言ふ君が 鬚なきごと

第十六巻には、ナンセンスなこっけいな歌がたくさん登場します。

次の歌もそんな戯れ歌のひとつです。

 

勝間田の池って良く知っているけれど、

蓮なんてあるもんですか。

蓮があるというあなたに

鬚(ひげ)がないのと一緒でしょ。

 

勝間田の 池は我知る 蓮(はちす)なし しか言ふ君が 鬚なきごと3835

かつまたの いけはあがしる はちすなし しかいふきみが ひげなきごとし

 

蓮は恋と同音で、美女や恋の意味を暗示しています。

「蓮なし」というの

は、恋愛の情が薄いことを意味し、私に対して

薄情だわと戯れています。当時、一人前の男なら鬚(ひげ)があって当然!

それがないから情も薄いのよね

 

石麻呂に 我もの申す 夏痩せに よしというものぞ 鰻とり食せ

万葉集第十六巻には、ナンセンスなこっけいな歌がたくさん登場します。
宴席の芸として読まれた戯れ歌の数々は、即興的に歌われたようです。
ナンセンスな脈絡のない歌をつくるには、むしろ相当な才能が必要だった
と思えるのです。

おーい、石麻呂

夏痩せにきくそうだから

うなぎを食べろよ(大伴家持)

まてよ、石麻呂

痩せていようが、生きていればいい

お前の痩せて軽い体で、うなぎをとろうと

川に流されてしまってもなあ(大伴家持)

 

痩せたる人を笑う歌二種(大伴家持)

石麻呂に 我もの申す 夏痩せに よしというものぞ 鰻とり食せ

いしまろに われものもうす なつやせに よしというものぞ むなぎとりめせ

痩す痩すも 生けらばあらむを はたやはた 鰻をとると 川に流るな

やすやすと いけらばあらむを はたやはた むなぎをとると かわにながるな

 

吉田老(きつたのおゆ)、通称、石麻呂は、体が痩せていて、

たくさん食べても飢餓の人のように見えました。そこで

大伴家持がこの歌を詠んでからかったのです。「石麻呂よ

、夏やせに効くそうだからウナギをお食べなさい。いや、

まて。痩せていても生きていればよいだろう。ともかく、

うなぎをとろうとして、川に流されてしまってもなあ」という歌です。

夏の土用の丑の日に今でもよく引用される有名な歌です。

冬の犬吠埼と佐原の町並み

2月10日、日本各地で大雪の中、こちら犬吠埼の海は晴れていました。

成田まで仕事の主人を送り迎えして、金曜夕方からついでにちょっと旅。

関東でも時折小雪が舞い散る中、

ドライブ好きの私達が向かったのは、なんと犬吠埼。

今月末には成田まで圏央道も開通する予定です。

 

ホテルの目の前は海。津波と地震大丈夫かなと思ってしまう程の絶景!!

半島の先端なのですが、東北大震災ではこの一体は無事だったとか。

近くのマリーナや旭市などでは

津波は7メートルにもなったそうなのですが、

半島の先端から左右に津波が分かれたようです。

 

 

浜辺にはきれいな小鳥が。

海岸にあるにもかかわらず、このあたりの被害は少なかったようです。

銚子の岩盤の硬い地域で、昔は城(佐貫城)があったとか。

屏風ヶ浦の海底に沈んでいるそうです。

 

屏風ヶ浦の燈台。

まわりは風力発電機が立ち並ぶ。

風の強い地域なんですね。

佐原に向かう途中、関東の東を護る、強力な開運パワーを持つ、香取神宮へ。

下総国の一宮である香取神宮、

平安時代から伊勢の他に神宮と呼ばれたのは、鹿島神宮と香取神宮だけ。

絢爛な装飾は元禄の頃の大名屋敷にも通じるものです。

 

帰りに、川越とも縁の深い、佐原によりました。

水運を利用して「江戸優り(えどまさり)」といわれるほど栄えていた佐原。

江戸の文化を取り入れ、更にそれを独自の文化に昇華していました

川沿いに重要文化財の建物が立ち並び、タイムスリップしたような街です。

 

 

佐原には伊能忠敬が30年余りを過ごした母屋と店舗がそのまま残されています。

伊忠敬翁は18歳で伊能家の養子となり、家業や村政の中心として活躍した後

50歳過ぎて、天文学や地理学を学び、日本各地を周り

大日本沿海輿地図を完成させたことで広く知られています。

忠敬の地図は日本だけでなく世界でも使われました。

すごく勇気づけられました!!

東京五輪ボート会場は彩湖に。水上交通で経済効果大

東京五輪ボート会場は彩湖に。水上交通で経済効果大

 

小池東京都知事のオリンピック会場変更計画で、彩湖案が浮上しました。

東京五輪ボート会場は彩湖にすることで、水上交通やサイクリングロードの

整備ができれば、経済効果は大きいのではないでしょうか。江戸時代は舟運で

にぎわっていたこの界隈をもう一度活かすことができたら、交通集中の問題の解消や

舟運による観光、荒川沿いに都心、つまり東京湾から埼玉ベッドタウンまで一気に

再開発が進み、美しい水上都市が出現するかもと夢が膨らみます。

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① 彩湖から荒川沿いに浅草や築地、デイズニーランド、観光客のメッカへ海上交通を開く。

彩湖から都心へは、荒川沿いに、墨田川を経由して浅草、築地を通り東京湾へ注ぎます。

すぐ近くにある戸田ボート場があり、また荒川本流は江戸川ボートレース場など通りながら

デイズニーランドや葛西臨海公園を見ながら東京湾へ注ぎます。

豊洲も築地も東京の都心へ一気に海上交通で彩湖往復事ができるようになるのです。

これが単にひとつのオリンピック会場を整備するだけでなく、また築地も動かすことなく

東京エリアに新しい経済価値を生み出す、素晴らしいインフラ整備につながるはずです。

浅草やデイズニーランド、こんな観光客の集まるメッカから直接、ボートで彩湖まで短時間で
往復する事ができるのです。

 

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② サイクリングロードや北部への水上交通の見直し、水害対策も一気にすすむ

さらに彩湖から先は、荒川や支流沿いにサイクリングロードなどが整備されており、

こちらも水上交通と一緒に新たな観光やまちづくりの活性化につながってゆくことが

期待できます。

彩湖自体が都心の災害時の水瓶であるとか、洪水時は使用できるのかという声もありますが

上流地域の水害への整備対応と併せて進めてゆくことで、しっかりした水害対策を予算化して

同時に実施することができ、近い未来に良さ予想される災害への準備も格段にすすみます。

③ 都心から海上をボートで最短20分。彩湖は近い

埼玉県ボート協会理事長の和田卓氏によると、オリンピックの会場としての9つのすべての用件をみたしており、かつ

都心から海上をボートで最短20分で到着することができるといいます。

和田卓は、彩湖に誘致した際の利点をHPで熱く語っています。

http://rowingfield.net

私の地元川越からは、昔は舟運交通が発達していて、舟で浅草までゆくことができました。

今、世の中で建物のリノベーション、地域の再生など、以前あった価値の見直しが進み

また、震災の際には古地図などをみながら土地の安全性も再考されつつあります。

そんな中、ベニスのように、東京も水の都であった往時の姿に一歩でも近づくことができたら

と夢がふくらみます。

川越①寺:喜多院3

客殿にはいってみよう。私たちが入る玄関は実は庫裏、お勝手口だったところだ。その左側を見ると真ん中に灌木があり、そこをぐるっと回ると。敷台があり、偉い方がのる御乗り物、籠が置かれていたた。敷台は非常に高い位置にある。乗り物から履物を変えないでそのまま建物の中にはいるようになっている。その階段をあがると、御殿のほうまで畳廊下でつながっている。この畳廊下の正面のぼりきいたところに使者の間がある。

嘉永5年の喜多院の絵図である。この赤く囲まれている部分が昔の喜多院の敷地を表している。喜多院は、4万8000坪があった。徳川家康自らが縄張りをして敷地を与えた。その敷地が縮められでしまったのは、明治新政府になってから、薩長新政府の指示によってである。新しい国づくりをするために大変な財力が必要なので、多くの人が投資しているにもかかわらず協力しないのは何事だということであった。

まして15代将軍の徳川慶喜が新政府に恭順の意を評して、勝海舟に全権委任し、江戸城を無血開城という形をとったのだから、喜多院の土地も払い下げをせよ、という指示があったのだ。現在の敷地で以外は払い下げられて、その収入は政府に吸い上げられてしまった。これも川越のひとつの姿である。川越は幕府直結の藩なので、新政府以降はかなり冷遇されてきたようだ。

現在、山門から入ると右手に五百羅漢があって、喜多院の本堂と別に潮音殿、慈恵堂、大師堂ともよばれている建物がある。火災の後立てられたものである。それに対して、客殿は家光候の御殿。潮音殿と客殿の間には何ら渡り廊下などもなかった。今はつながっていますが、それは明治以降に作られたものである。

山門の近くに本地堂というお堂があった、紋蔵庵お菓子屋さんのところの細い道をはいってちょっと左側はいったあたり、徳川家康の本地仏は薬師如来なので、薬師堂を本地堂といい、本地堂は南を向いているお堂であった。明治時代になると壊さざるを得ない状況になった。

ところが、当時、西郷隆盛の征韓論があり、旧江戸っ子たちが西郷産頑張れとフィーバーするという記録が残っているほど、西郷人気が高かった。新政府は、戊辰戦争の後、上野の山を全山没収してしまい、洋風公園に変えてしまってしまい、博物園(動物園)をつくってしまった。それが恩賜公園(天皇からいただいた証を残して)の由来である。西郷隆盛は、大久保利通などとの仲違いがあったのだが、寛永寺は江戸ッ子たちには憩いの場として、開かれたお寺だったのでその復興を願う人々も多かった。 その時に、新政府としては、公式表明をすることが立場的にできなかったので、それを暗黙に許したのだが、しかし、寛永寺に建物を建てる資源が全くなかったので、当時の喜多院の住職がどうせ壊さなくてはいけないので、本地堂を上野寛永寺に寄付しよう、ということになった。現在の上野の寛永寺根本中道は川越から喜多院の本地堂が移築されて出来た建物である。明治9年から12年にかけて移築され、国の重要文化財になっている。ここにも江戸と川越のつながりがあるということを知っていただけたらと思う。

これは明治30年の黒門から山門を見たところ。ここに塔があるのがわかりだろうか。これが多宝塔です。日吉(ひえい)神社のところにたっていたが、それが大正13年道路を切ってしまって全部なくなってしまった。払い下げのことがあったので、多宝塔も壊して、敷地内に移動した。昭和50年ぐらいまでは、潮音殿から客殿にいく間の通路のところにまるで竜宮城のように石で門があってその上に塔が立っていたのを覚えていらっしゃるかたもおられるでしょうか。その移動した時に、地面の中からまが玉、くた玉がはいった石の箱が出てきたす。中をあけると墨書で天海の名前が書いてある。寛永15年の火災のあと、ここに多宝塔を作った証である。喜多院に保管してあるので、機会がありましたら見て欲しい。

この茶畑からは、発掘調査を行った時に、室町時代の土抗(墓)を2基発見した。また多数の板碑が出てきて、室町時代にお寺として機能していたんだことが証明される。そんなことから明治30年の写真からお寺としてお茶畑、桑畑をしていたのではないかとも考える。(川越文化コンシェルジュ講座より)

 

川越のまちに足りないものは?

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7月3日の川越文化コンシェルジュ講座は、

川越蔵の会の原会長のお話でした。
 タイトルは「歴史的景観をいかしたまちづくりへの取り組み」

蔵の会の一番街を中心としが活性化にむけてのこれまでの努力は誠に素晴らしいもので行政、専門家、地方商店などの連携にもこれまでご苦労がうかがわれるお話でした。



川越文化コンシェルジュ講座で「川越のまちに足りないものは」を
 皆さんに聞いてみましたので、その意見をまとめて書き出してみました。
 これからの活動の参加にしたいと思っています。

以下「川越のまちに足りないものは」アンケート

ガイドになりたいので、市民観光ガイド育成の研修システムがあると良いです。
 川越駅から行き方に困っている人がよくいます。バスがわかりにくい。

川越織物市場を見学できるようにしてほしいです。そこで川越唐桟や
 できたら川越素麺など復活して売ってほしい。

できたらポケットパークごとに公共トイレを設置してほしいです。

市民の川越に対する郷土愛や「川越ならでは」に対する理解や深まってもっと自信を持ってほしい。

一番街の土、日、歩行者道にできないだろうか

土曜、日曜、祝日はまたは時間を決めて歩行者天国を設けてほしい。
 バス停があるのは便利でとてもうれしいが、道路の幅が車と人双方には
 狭すぎて、ゆっくり景観を見ることが出来ない状態である。

これからは川越近郊の宿泊を増やすために、観光協会などと提携し、宿泊施設を整備する。

行政の課題でもあるが、伝統文化の普及とともに
 川越新住民と市街中心地の交流を促進し、川越新住民も
 川越に対する郷土愛をもてるような活動を増やす。

蔵の街のリピーターを増やすために
 1 説明表示の数や位置
 2 目的地への順路表示
 3 通路の安全性
 4 蔵、寺、川、産物、食をつなげるパンフレット表示をつくる

緑の空間がほしい

居酒屋的なにぎわいが感じられる横丁、路地的空間の整備

夜のにぎわいづくりが必要

路地をもっと楽しくできないか

全国チェ-ンの店が増えてゆくのがさびしいので
 地元の若い人が活躍でき、この街を守ってもらえたら。

交通では、危険な思いをしている。

バスの利用方法がわかりにい。

このような意見が寄せられました。皆さん川越をよくしようと暑さの中、熱い思いが寄せられました。

明治の大火と蔵造りの町並み

1893(明治26)年、川越で大火が起きました。当時の総戸数の3割強にあたる

1,300戸数焼失とされていますが、実際は大半のたてものが焼けてしまったのです。

この大火の後にようやく出来たのが、蔵造りの建物です。明治の26年から30年当時、

東京の表通りは蔵造り町並みでした。銀座は国策で煉瓦造になりましたが、明治20年代は、

煉瓦よりも蔵を立てるのが主流でした。

煉瓦は技術者が足りなく、まだ庶民にはなかなか手が届かないものだったのです。

蔵だったら、農家の人が土ごねをし、田んぼの土で作ることができました。

材木も壁土も建具も、日本の建物はリサイクルが可能。当時は職人さんもたくさん

ました。日本建築はリサイクル可能な地球にやさしい建て方なのですね。

関東大震災で、東京は壊滅的打撃をうけました。東京では、武家屋敷と違い、町場は地盤が悪い

低湿地に作られていたので、地震では壊滅的打撃を受けました。その関東大震災以前の東京の町並み

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を彷彿と させる、その面影を残しているのが川越のまちなみとなって現在に生きています。

そのことを知っている世代は、じいさんが建てた家に誰も来てくれるはずはない、明治の新しい

建物にきてくれるわけがないとの考えが中心だったそうですが、今や街のシンボルとなる文化財に

なったのです。(川越文化コンシェルジュ講座より)

江戸時代の町割りを残す川越の街並み

現在の場所に川越城が築かれたのは1457年のことです。

少し歴史の話をしますと、室町幕府は、足利一族を鎌倉公方として関東の支配権を与えたのですが
1455年5代鎌倉公方足利成氏は8代将軍足利義政に反旗を翻し、鎌倉公方を補佐する関東管領
上杉氏とも対立し成氏は本拠地を古河へと移し、古河公方となります。このように古河公方と堀越公方と
いう二人の公方が関東で対立するこになりました。
その際、鎌倉方の最前線として、岩槻、川越、江戸に拠点が置かれました。川越の中心は、それ以前は
入間川の河畔にあった河越の館でした。大規模に拡張されたのは江戸時代になってからです。
河越から川越という表記に変わったのも江戸時代になってからのことでした。

松平伊豆守信綱候が、この川越に殿様として来られた時の大きな仕事が、この川越城の整備と
十か町四門前郷分町(じっかちょうしもんぜんごうぶんちょう)という街並みの整備でした。
1638(寛永15)年の大火事の後のことです。

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山崎家別邸から庭を眺める

 

 

松平信綱の時代に川越は十か町四門前郷分町(じっかちょうしもんぜんごうぶんちょう)という、
近世の模範的な城下町の区割りを完成させました。その特色は東側は自然要害。田植えを
する時に腰あたりまで水に使ってしまので田舟を使って田植えをしていたのです。
西側は大地、家光の時代はまだいつ豊臣の残党、つまり真田など最後まで抵抗した
人たちが攻めてこないとも限らないということで、お寺はほとんど今の蔵づくりの
町の西に移動させられました。養寿院、行伝寺、蓮馨寺、妙養寺が四門前を形成しています。

今まちを歩くとなぜこんなにお寺が集中しているのかと思うでしょう。焙烙灸の妙昌寺などは、
もともと足利義満の時代には蔵造りのまちなみにありました。
いかに軍事的に安定した町にするかということを考え町割りを整えたのが信綱なのです。
この街並みは現在でもほとんど変わっていません。

川越の町並みで一番大きな変化をしたのは、昭和の初期の近代建築が集まっている中央通りの部分です。
仲町から本川越までぶち抜いた通りであるが、本来の街道というのは、札の辻から仲町そして、
左に折れて、商工会議所からまっすぐ所沢街道に繋がるというものでした。今その中央通りでは今、町の人たち
が昭和の町づくりという運動を始めています。

道路は、入間川街道、東京(川越)街道、坂戸方面、松山方面、上尾方面というように、十か町から放射状に
広がっていますが、また、久保町から東西にのびる道は昭和になってから新しく出来た道でもあります。

川越街道は江戸時代からの街道で、日本橋から出発した中山道が板橋宿の平尾追分で分岐し川越まで至る
道です。「九里(栗)よりうまい13里半(さつまいも)」、川越は江戸から13里の道のりです。中心商業
地域はそのまま商業系用途地域に、武家地だったところはそのまま住宅系用途地域になっていますが、
人間関係など引き継いている部分もあり、新しいアイデアやしくみなどがか簡単には実現しにくいという

難しい一面も持っています。(川越文化コンシェルジュ講座より)