令和万葉集:万葉人と夢

今日では、夢そのものは、脳の働きとして、深層心理の

現れであったり、記憶の整理、あるいは、意識としては

忘れたいことが現れたりするというように考えるのが

普通ですが、夢は自分の中からではなく、テレパシーの

ように外から来るものと万葉人は考えていたようです。

 

吾妹子が いかに思へか ぬばたまの 一夜も落ちず 夢にし身ゆる3647

「わが妻がどのように思っているからなのか、一夜もかかすことなく夢に現れる。」

 

万葉人は、強く思っている相手の夢には現れることができると

考えていたようです。言ってみれば、現代の私たちには考えられないほど、

夢は魔法の力を持っていたとも言えます。

 

中世の文学にも登場する 奈良の長谷寺十一面観世音菩薩

 

 

相思はずは 君にはあるらし ぬばたまの 夢にも見えず

祈誓(うけひ)て寝れど 2589

「あなたは私のことを思ってはいないのね。 祈誓をして寝ても夢にあらわれないなんて」

 

祈誓(うけい)というのは、神に誓いをたてて寝ることで、

夢の中で答えがえられるというものですが、うまくいかないこともあったわけです。

 

袖を折り返して寝ると夢で思う人に逢える、というおまじないもありました。

吾妹子に 恋ひてすべなみ 白栲の 袖返ししは 夢に見えきや 2812

 

2812 「いとしいあの子がが恋しくてたまらないので、

袖口をおりかえして寝たけれども、夢に私は現れただろうか。」

 

袖を折り返して寝ると、恋する相手が夢にあらわれると

信じられていました。自分が見た夢は相手も同時に

見るものも考えられていたのです。

令和万葉集:万葉人の恋と夢「赤い紐で結ばれた二人」

旅の夜の 久しくなれば さ丹つらふ 紐解き放けず 恋ふるこのころ 3144

「旅の夜を重ねることも久しくなったので、赤く美しい紐を

解き放つこともせず、恋しく思うこのごろです」

 

「赤い糸で結ばれた二人」とは、今もわたしたちがごく

普通に使う表現ですが、万葉人にとっても、男女のいわゆる

魂結びに関係して赤い紐が用いられました。別れに際し、

互いに固く結び、再会まで解かないのが原則でした。

水浴びするときなど、そのまま入ったのかどうか、定かでは

ないのですが。もちろん「妻の赤く美しい紐を解き放すことがなく」

という解釈もあるのですが、こうした男女が赤い紐に魂を結ぶと

いう風習があったならば、素敵なことですね。

 

 

吾妹子し 吾を偲ふらし 草枕 旅のまろ寝に 下紐解けぬ 3145

「いとしいあの子が私を思っているらしい。

草を枕に着衣の紐も解かず寝たはずなのに、下紐が自然に解けたことだ。」

 

恋人や離れた妻が強く思っていると、自然に男の下紐が解ける

と考えられていました。また、下紐が解けるのは、恋人が来訪する

予兆とも考えられました。まるで、強く望んだり、相手に逢おうと

夢みること自体が、呪力性を持ってそうした現象を引き起こすと

信じられていたようです。

令和万葉集:万葉人が信じていた、ユニークな恋のジンクス

万葉人が信じていた、ユニークな恋のジンクスを

ご紹介しましょう。

何だか眉がむずがゆい、くしゃみがでそうなのは、

現代人なら風邪や花粉症のせいだと思ってしまうで

しょうが、万葉人は恋人に逢える兆候だと思っていました。

衣服の紐が自然にほどけるのも、また相手が自分を

思ってくれている印だったのです。

(男の歌)


眉根痒き 鼻ひ紐解け 待てりやも いつも見むかと 恋ひ来し我を

「眉を掻いて、くしゃみをして紐をほどいて待っていてくれたんですか。

あなたのことのことばかり思っている僕のことを」

(女の歌)

今日なれば 鼻ひ鼻ひし 眉痒み 思ひしことは 君にしありけり

2809「たしかに今日はクシャミも出るし、眉も痒くてたまらなかったわ、

それはあなたのせいだったのね。」

この2首の男女の恋のやりとりは、柿本人麻呂歌集として2408番に載る

類歌を用いたものです。

 

くしゃみをするのは人が自分を思う兆し、というジンクスに基づき歌った和歌をもう一首。

うちはなひ 鼻をぞひつる 剣大刀 身に添う妹し 思ひけらしも 2637「くしゃんと、くしゃみをした。腰に帯びる剣の太刀のように、いつも我が身に寄り添う妻が、今僕のことを思っているらしいよ。」

相手が自分のことを思ってくれているか、今夜はきてくれるのか、恋は不安で、つらくて、切なくて。そんな気持ちは今も昔も変わらないですね。

令和万葉集:筑波嶺の 新桑繭の 衣はあれど 君が御衣し あやに着欲しも

筑波嶺の 新桑繭の 衣はあれど 君が御衣し あやに着欲しも

3350つくばねの にひぐはまよの きぬはあれど きみがみけしし あやにきほしも

 

筑波嶺一帯の、新しく出た桑の葉で育った蚕からとれる質の

良い糸で織った上等の衣もすばらしいにはちがいないが、

それよりも、あなたの着たその衣こそ無性に着てみたい

 

蚕には春蚕と夏蚕があるですが、新桑繭とは、春蚕、

つまり春に新しく芽生えた桑の葉を食べて育った蚕が

つくる繭で、夏蚕よりはるかに上等、最高の衣ができる

とされました。そんな上等の衣もあるのですが、あなたの

衣が着たいとは、相手の衣を敷いて共寝する、つまり愛を

受けたいという女性の歌で、新婚の儀式の歌だったとも

考えられています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また、筑波嶺一帯では養蚕が既に盛んに行なわれていて、

絹を税として納めていた当時の生活様式がよくわかる歌です。

常陸の国の歌です。

 

筑波嶺に 雪かも降らる 否をかも 愛しき子ろが 布干さるかも 3351

つくばねに ゆきかもふらる いなをかも いとしきころが にのほさるかも

 

筑波嶺一帯に雪が降っているのかな、

いや違うのかな、

いとしいあの子が布を干しているのかなあ

 

筑波山一帯に雪が降ったのかなあと思われるほど白布が干してある、

そういった美しい光景を見て感動して詠んだ歌で、

布の生産を言祝ぎ、布の多産を祈る歌です。

令和万葉集:多摩川に さらす手作り さらさらに なにぞこの児の ここだ悲しき

万葉時代は、一般の女性たちも、額田王や持統天皇などの

宮廷のトップも、農業や機織り、麻の刈り干しなどを職業とし、

生き生きと働いていました。特に布や衣服に関連する職業は

女性のものとされていました。こうした布は税として納められる

貴重な品々でした。現在の東京都、埼玉県、神奈川県の一部に

わたる武蔵国の多摩川流域の歌から、まず、そんな働く女性を垣間みて、

恋する東国の男性の歌った労働歌を見てみましょう。

 

多摩川に さらす手作り さらさらに なにぞこの児の ここだ悲しき

3373 たまがはに さらすてづくり さらさらに なにぞこのこの ここだかなしき

「多摩川にさらす手織りの布をさらさら音を立てて晒すように、

さらにさらに、どうしてこの娘が愛おしいのだろう。」東歌)

 

大昔の多摩川、さらさらと流れる川音に合わせ、布をさらして

いきいきと働く女性に恋をし、さらにさらにいとおしくて

たまらないと歌う和歌です。今も多摩川の流域に調布という

地名が残っていますが、武蔵国では税(租庸調の調)として、

麻の布を朝廷に納めていた名残です。この和歌は、そうした麻布

づくりの作業の際に皆で歌った歌のようです。万葉集十四巻は

そんな東国の歌がたくさん出てきます。

令和万葉集:いにしへに織りてし機を この夕へ 衣に縫いて 君待つ我を

古に織りてし機を この夕へ 衣に縫いて 君待つ我を 2064

いにしえに おりてしはたを このゆうへ ころもにぬいて きみまつわれを

ずっと以前から織ってきた織物を、この七夕の夕べには縫い上げ、あなたが来るのを待つ私

 

足玉も 手玉もゆらに 織る機を 君がみけしに 縫いもあえむかも2065

あしだまも だたまもゆらに おるはたを きみがみけしに ぬひもあへむかも

足に付けた玉も、手に巻いた玉も、ゆらゆらと揺らめき鳴らしつつ織る布を

あなたの着物に縫い上げることができかしら

 

棚機女は神聖な職業でもありました。足玉は、足首にまいた玉で、

手玉は手首に巻いた玉です。神を迎えるための巫女の姿です。

そんな玉がゆらめきながら、美しい音を鳴らしながら機を織るという姿は、

単なる労働としての機織りではなく、女性が巫女として祭祀とかかわる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

重要な仕事に関わっていたことを示しています。

令和万葉集:天の川と織姫の祈り

布を織ることは、洋の東西にかかわらず女性の大切な職業とされてきました。

そもそも七夕の起源は、天帝による罰であったと言われています。

天帝は、機織りの仕事に明け暮れる自らの娘を哀れみ、

牽牛に嫁がせたのですが、嫁ぐとすぐに娘は機織りの仕事を

一切忘れてしまうのです。天帝はこれを怒り、二星を引き離し、

一年に一度のみの逢瀬を許したのですが、それほど、

古代において機織りは重要な仕事であったのでしょう。

 

縦糸と横糸を紡ぐことは、永遠の命をつむぐこと、

子孫繁栄につながる象徴と考えられてもいました。

7月7日に五色の短冊に願いを書いて飾り、

天の川に祈る七夕の原型は万葉時代にもありました。

中国では七夕は牽牛と織女を祀る秋の行事で、

日本の宮中に伝来し、これに日本の棚機女

(たなばたつめ)の伝説が重なって一緒になったようです。

棚機女とは織物を織る女性の巫女のことです。機(はた)とは、

はつ(合わせる)という意味で、織ると同義語で織物の意味に使われています。

 

君に逢はず 久しき時ゆ 織る服の 白衣 垢付くまでに 2028

きみにあはず ひさしきときゆ おるはたの しろたへころも あかつくまでに

 

「あなたに逢うこともなく、ずっと久しく織っている白栲の衣も、

手垢が付くまでになってしまいましたわ」

七夕での逢瀬を待ち焦がれ、あなたのために心を込めて

織っている白い衣がああまりに久しい時のために手垢で

汚れてしまったという織姫の実感のこもった和歌です。

 

令和万葉集:天の川 霧立ち上る 織女(たなばた)の 雲の衣の反る袖かも

古代、織物は神への最高の捧げものでした。

清らかな汚れのない巫女が織る機(はた)織物は、

生命力の象徴として子孫繁栄を願って、穀物とともに神に捧げられました。

古事記ではタクハタチジヒメノミコトという美しい女神が織物を司っています。

ギリシア神話の中では,国民的英雄ヘラクレスが赤子のとき,

女神ヘラの乳房を強く吸ったため乳がほとばしって天の川となったとされ、

天の川は、英語では「MILKY WAY」と訳されます。

月の女神さまのおっぱいでもある天の川に、巫女たちは恋の成就から生命誕生、

幸福な家族や子孫繁栄を願って機織りものを捧げたのです。

天の川 霧立ち上る 織女(たなばた)の 雲の衣の反る袖か

2063 あまのかわ きりたちのぼる たなばたの くものころもに かえるそでかも

「天の川に霧が立ち上がっている。織女の雲の衣のひるがえる袖なのかなあ」

天武天皇が、「少女(おとめ)ども 少女さびすも 唐玉(からたま)を

袂(たもと)にまきて 少女さびすも」と、吉野の宮で琴を弾いて歌うと、

天女がこの五節舞(ごせちのまい)の歌を歌いながら、

雲とともに、袖を5回翻して舞ったという伝説があります。

 

冒頭の万葉歌ではそんな天女に織女を重ねた歌です。

雲を天女の衣に見立て、霧を袖と見立てています。

 

 

令和万葉集:天の川 棚橋渡せ 織女の い渡らさむに 棚橋渡せ

一年にたった一度のこの七夕の夜、万葉集の七夕歌には

とても楽しい歌があります。

天の川 棚橋渡せ 織女の い渡らさむに 棚橋渡せ

あまのがは たなはしわたせ たなばたの いわたらさむに たなはしわたせ2081

 

「天の川に橋を渡しなさいよ。織女様が渡って行かれるんだから、橋を渡しなさいよ」

 

さて、日本の七夕伝説では、彦星が天の川を

渡ってくるのを織女が待っているというのがお決まりのパターンです。

ところが、この歌では、彦星が来るのをじっと待っているなど

とてもしておられない。織女自ら天の川を渡らせてあげなさい

という歌です。

もちろん、後朝の別れの後、去っていく彦星のあとを追って

織女を渡らせてやりたいという思いで詠まれた歌とも解せます。

 

棚橋とは、板を渡しただけの簡単な構造の橋のことで、

中国の七夕伝説では渡るのは鵲(かささぎ)橋だったのですが、

日本では棚橋になりました。しかし、中国伝説の鵲橋も美しいイメージです。

牽牛・織女の二星が逢う七夕の夜、カササギが翼を並べてできる橋のことです。

待っていられない織女を見て詠んだと解せば、

「一枚の板でいいから、橋を渡し、二人を逢わせてお上げなさい」と言っているのです。

令和万葉集:彦星はいかにして天の川を渡るか

第十巻秋の雑歌には七夕や天の川を歌った歌が

九十八首もおさめられています。一年にたった一度の

この七夕の夜、日本の七夕伝説では、彦星の方が

天の川を渡って織女のもとにやって来るというのですが…。

 

「天の川がね、去年は歩いて渡る浅瀬があったのに、

その浅瀬が移ってしまっていてね。川の水の浅いところを

探してしていたら、こんなに深くなってしまったのだよ」

 

天の川を渡る方法は、舟を使うか、橋を渡るか、

川を歩いて渡るかの三通り。それに、七夕歌には、

一つの見事なシナリオでできあがっている歌の群もあります。

そうしたなか、いろいろ解釈できそうですが、

弁解がましい、しかし、いかにもありそう、

とても愛し合っている二人です。それだけに、傍から見ると、

とても大げさで、何だか少しおかしくもある、

でもやはり、すばらしい恋の歌です。