令和万葉集:家持先生、浮気男をいましめる

紅色の衣は、美しいけれど

色が褪せてしまうものだよ。

橡で染めた、地味でも

慣れ親しんだ着やすい衣に

勝るものがあろうかね。

 

紅は うつろふものぞ 橡(つるばみ)の なれにし衣に なほ及めやも

4109 くれなゐは うつろふものぞ つるばみの なれにしきぬに なほしかめやも

 

大伴家持が部下の書記官である史生尾張少咋(ししやうをばりのをくひ)が

遊行女婦(=遊女)の左夫流児(さぶるこ)に浮気したことを、やんわりと、

しかも、なかなか厳しくいましめる歌です。

この和歌の前にある和歌を次にご紹介しましょう。

 

あをによし 奈良にある妹が 高々に 待つらむ心 しかにはあらじか

4107あおによし ならにあるいもが たかだかに まつらむこころ しかにはあらじか

 

青丹も美しい奈良じゃね、ひたすらお前の帰りを待ちわびている。

その奥さんの心は、まったくもっともなことではないか。

 

 

「青丹も美しい奈良にいて、ひたすら待ちわびている妻の心は、

まったくもっともなことではないか。」

 

里人の 見る目恥はづかし 左夫流児(さぶるこ)に さどはす君が 宮出後姿(みやでしりぶり)

4108さとびとの みるめはずかし さぶるこに さどはすきみが みあでしりぶり

 

里人の見る目が恥ずかしいではないか。

左夫流児(さぶるこ)という女に迷っている君が出勤する後ろ姿は。

 

「里人の見る目が恥ずかしいではないか。左夫流児(さぶるこ)という女に迷っている君が出勤する後ろ姿は。」

ところが、その2日後、なんとくだんの妻が馬に乗って

都から乗り込んできたのです。つまり、越中にいる夫が都の

本妻を呼び迎えるための使いを出したのに、その使いも待たずに

みずからやってきてしまったのです。

そこで家持先生、大いにうろたえ、大仰に誇張をまじえ、こ

れはこれは大騒動出来(しゅったい)とばかりに、次の和歌を詠んだのです。

 

左夫流児が 斎きし殿に 鈴懸けぬ 駅馬下れり 里もとどろに

さぶるこが いつしきとのに すずかけぬ はゆまくだれり さともとどろに

 

 

これは大変! 

左夫流児殿が大切にお使え申す書記官殿のお屋敷に

駅鈴もつけずに早馬で本妻がのりこんだ。

里中鳴り響くばかりに息せききって。

 

 

本来、官道の駅家に備えた官人利用の馬は、

駅馬利用の資格を証明する鈴をつけているはずなのに、

それもつけずに、本妻が勝手に尾張少咋の館にやってきたのである

。尾張少咋と左夫流児は同棲していたのですね。

こういうふうに描かれた、嫉妬に狂った本妻の姿は、

中世にしきりに行なわれたという「後妻(うわなり)打ち」

の風習の起源を見ているようです。後妻に対して、前妻方が

日程を予告、相当数の人数で竹刀を持って襲うというもの、

やがて仲裁が入るのですが、死者が出たともいわれるオソロシイ風習です。

 

 

 

令和万葉集:縦さにも カニも横さも やっとこそ 我はありける 主の殿戸に

大伴家持の歌日誌を収めた第18巻には、次のような歌があります。

縦にも横にも やっとこさ

ご主人様の下僕でござる

カニように 生きるのさ

作者は大伴池主です。大伴家持は、国守(県知事)として越中へと

赴任するのですが、そこには大伴の一門の旧知の大伴池主が国掾(じょう)

として任務についていました。国司の三等官、県庁なら総務部長クラスというところです。

時は、藤原中麻呂が台頭してくる頃で、名門大伴家を守っていくという

強い意志を二人は共有、歌ともだちとして交流していました。

後に、橘奈良麿による藤原仲麻呂打倒の乱に、池主は加わわるのですが、

このことが事前に発覚し、姿を消してしまい、これ以降、大伴家は衰えてゆきます。

それはさておき、ユーモラスなコトバ遊びが楽しめます。

 

 

縦さにも カニも横さも やっとこそ 我はありける 主の殿戸に

4132たたさにも かにもよこさも やっとこそ あれはありける ぬしのとのどに

「たてにもよこにも、ともかく私は下僕としてあったことだった。御主人であるあなたの御門にて。」

令和万葉集:この頃の 我が恋力 記し集め 功(くう)に申さば 五位の冠

最近 俺が女にどれくらいつくしているか

俺の恋の労力といったら、並大抵のものではないぞ

文書に書き起こしたら

きっと、五位の位階はもらえるくらいだぜ。

 

いわゆる力役も財物となりました。銭や稲など献納することで、

官位が与えられる献物叙位は多くあったのです。

そういう社会を背景におもしろおかしく詠まれた歌です。

この頃の 我が恋力 記し集め 功(くう)に申さば 五位の冠

3858このころのあがこひぢから しるしあつめ くうにまをさば ごゐいのかがふり

 

令和万葉集:勝間田の 池は我知る 蓮(はちす)なし しか言ふ君が 鬚なきごと

第十六巻には、ナンセンスなこっけいな歌がたくさん登場します。

次の歌もそんな戯れ歌のひとつです。

 

勝間田の池って良く知っているけれど、

蓮なんてあるもんですか。

蓮があるというあなたに

鬚(ひげ)がないのと一緒でしょ。

 

勝間田の 池は我知る 蓮(はちす)なし しか言ふ君が 鬚なきごと3835

かつまたの いけはあがしる はちすなし しかいふきみが ひげなきごとし

 

蓮は恋と同音で、美女や恋の意味を暗示しています。

「蓮なし」というの

は、恋愛の情が薄いことを意味し、私に対して

薄情だわと戯れています。当時、一人前の男なら鬚(ひげ)があって当然!

それがないから情も薄いのよね

 

石麻呂に 我もの申す 夏痩せに よしというものぞ 鰻とり食せ

万葉集第十六巻には、ナンセンスなこっけいな歌がたくさん登場します。
宴席の芸として読まれた戯れ歌の数々は、即興的に歌われたようです。
ナンセンスな脈絡のない歌をつくるには、むしろ相当な才能が必要だった
と思えるのです。

おーい、石麻呂

夏痩せにきくそうだから

うなぎを食べろよ(大伴家持)

まてよ、石麻呂

痩せていようが、生きていればいい

お前の痩せて軽い体で、うなぎをとろうと

川に流されてしまってもなあ(大伴家持)

 

痩せたる人を笑う歌二種(大伴家持)

石麻呂に 我もの申す 夏痩せに よしというものぞ 鰻とり食せ

いしまろに われものもうす なつやせに よしというものぞ むなぎとりめせ

痩す痩すも 生けらばあらむを はたやはた 鰻をとると 川に流るな

やすやすと いけらばあらむを はたやはた むなぎをとると かわにながるな

 

吉田老(きつたのおゆ)、通称、石麻呂は、体が痩せていて、

たくさん食べても飢餓の人のように見えました。そこで

大伴家持がこの歌を詠んでからかったのです。「石麻呂よ

、夏やせに効くそうだからウナギをお食べなさい。いや、

まて。痩せていても生きていればよいだろう。ともかく、

うなぎをとろうとして、川に流されてしまってもなあ」という歌です。

夏の土用の丑の日に今でもよく引用される有名な歌です。

冬の犬吠埼と佐原の町並み

2月10日、日本各地で大雪の中、こちら犬吠埼の海は晴れていました。

成田まで仕事の主人を送り迎えして、金曜夕方からついでにちょっと旅。

関東でも時折小雪が舞い散る中、

ドライブ好きの私達が向かったのは、なんと犬吠埼。

今月末には成田まで圏央道も開通する予定です。

 

ホテルの目の前は海。津波と地震大丈夫かなと思ってしまう程の絶景!!

半島の先端なのですが、東北大震災ではこの一体は無事だったとか。

近くのマリーナや旭市などでは

津波は7メートルにもなったそうなのですが、

半島の先端から左右に津波が分かれたようです。

 

 

浜辺にはきれいな小鳥が。

海岸にあるにもかかわらず、このあたりの被害は少なかったようです。

銚子の岩盤の硬い地域で、昔は城(佐貫城)があったとか。

屏風ヶ浦の海底に沈んでいるそうです。

 

屏風ヶ浦の燈台。

まわりは風力発電機が立ち並ぶ。

風の強い地域なんですね。

佐原に向かう途中、関東の東を護る、強力な開運パワーを持つ、香取神宮へ。

下総国の一宮である香取神宮、

平安時代から伊勢の他に神宮と呼ばれたのは、鹿島神宮と香取神宮だけ。

絢爛な装飾は元禄の頃の大名屋敷にも通じるものです。

 

帰りに、川越とも縁の深い、佐原によりました。

水運を利用して「江戸優り(えどまさり)」といわれるほど栄えていた佐原。

江戸の文化を取り入れ、更にそれを独自の文化に昇華していました

川沿いに重要文化財の建物が立ち並び、タイムスリップしたような街です。

 

 

佐原には伊能忠敬が30年余りを過ごした母屋と店舗がそのまま残されています。

伊忠敬翁は18歳で伊能家の養子となり、家業や村政の中心として活躍した後

50歳過ぎて、天文学や地理学を学び、日本各地を周り

大日本沿海輿地図を完成させたことで広く知られています。

忠敬の地図は日本だけでなく世界でも使われました。

すごく勇気づけられました!!

東京五輪ボート会場は彩湖に。水上交通で経済効果大

東京五輪ボート会場は彩湖に。水上交通で経済効果大

 

小池東京都知事のオリンピック会場変更計画で、彩湖案が浮上しました。

東京五輪ボート会場は彩湖にすることで、水上交通やサイクリングロードの

整備ができれば、経済効果は大きいのではないでしょうか。江戸時代は舟運で

にぎわっていたこの界隈をもう一度活かすことができたら、交通集中の問題の解消や

舟運による観光、荒川沿いに都心、つまり東京湾から埼玉ベッドタウンまで一気に

再開発が進み、美しい水上都市が出現するかもと夢が膨らみます。

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① 彩湖から荒川沿いに浅草や築地、デイズニーランド、観光客のメッカへ海上交通を開く。

彩湖から都心へは、荒川沿いに、墨田川を経由して浅草、築地を通り東京湾へ注ぎます。

すぐ近くにある戸田ボート場があり、また荒川本流は江戸川ボートレース場など通りながら

デイズニーランドや葛西臨海公園を見ながら東京湾へ注ぎます。

豊洲も築地も東京の都心へ一気に海上交通で彩湖往復事ができるようになるのです。

これが単にひとつのオリンピック会場を整備するだけでなく、また築地も動かすことなく

東京エリアに新しい経済価値を生み出す、素晴らしいインフラ整備につながるはずです。

浅草やデイズニーランド、こんな観光客の集まるメッカから直接、ボートで彩湖まで短時間で
往復する事ができるのです。

 

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② サイクリングロードや北部への水上交通の見直し、水害対策も一気にすすむ

さらに彩湖から先は、荒川や支流沿いにサイクリングロードなどが整備されており、

こちらも水上交通と一緒に新たな観光やまちづくりの活性化につながってゆくことが

期待できます。

彩湖自体が都心の災害時の水瓶であるとか、洪水時は使用できるのかという声もありますが

上流地域の水害への整備対応と併せて進めてゆくことで、しっかりした水害対策を予算化して

同時に実施することができ、近い未来に良さ予想される災害への準備も格段にすすみます。

③ 都心から海上をボートで最短20分。彩湖は近い

埼玉県ボート協会理事長の和田卓氏によると、オリンピックの会場としての9つのすべての用件をみたしており、かつ

都心から海上をボートで最短20分で到着することができるといいます。

和田卓は、彩湖に誘致した際の利点をHPで熱く語っています。

http://rowingfield.net

私の地元川越からは、昔は舟運交通が発達していて、舟で浅草までゆくことができました。

今、世の中で建物のリノベーション、地域の再生など、以前あった価値の見直しが進み

また、震災の際には古地図などをみながら土地の安全性も再考されつつあります。

そんな中、ベニスのように、東京も水の都であった往時の姿に一歩でも近づくことができたら

と夢がふくらみます。

川越①寺:喜多院3

客殿にはいってみよう。私たちが入る玄関は実は庫裏、お勝手口だったところだ。その左側を見ると真ん中に灌木があり、そこをぐるっと回ると。敷台があり、偉い方がのる御乗り物、籠が置かれていたた。敷台は非常に高い位置にある。乗り物から履物を変えないでそのまま建物の中にはいるようになっている。その階段をあがると、御殿のほうまで畳廊下でつながっている。この畳廊下の正面のぼりきいたところに使者の間がある。

嘉永5年の喜多院の絵図である。この赤く囲まれている部分が昔の喜多院の敷地を表している。喜多院は、4万8000坪があった。徳川家康自らが縄張りをして敷地を与えた。その敷地が縮められでしまったのは、明治新政府になってから、薩長新政府の指示によってである。新しい国づくりをするために大変な財力が必要なので、多くの人が投資しているにもかかわらず協力しないのは何事だということであった。

まして15代将軍の徳川慶喜が新政府に恭順の意を評して、勝海舟に全権委任し、江戸城を無血開城という形をとったのだから、喜多院の土地も払い下げをせよ、という指示があったのだ。現在の敷地で以外は払い下げられて、その収入は政府に吸い上げられてしまった。これも川越のひとつの姿である。川越は幕府直結の藩なので、新政府以降はかなり冷遇されてきたようだ。

現在、山門から入ると右手に五百羅漢があって、喜多院の本堂と別に潮音殿、慈恵堂、大師堂ともよばれている建物がある。火災の後立てられたものである。それに対して、客殿は家光候の御殿。潮音殿と客殿の間には何ら渡り廊下などもなかった。今はつながっていますが、それは明治以降に作られたものである。

山門の近くに本地堂というお堂があった、紋蔵庵お菓子屋さんのところの細い道をはいってちょっと左側はいったあたり、徳川家康の本地仏は薬師如来なので、薬師堂を本地堂といい、本地堂は南を向いているお堂であった。明治時代になると壊さざるを得ない状況になった。

ところが、当時、西郷隆盛の征韓論があり、旧江戸っ子たちが西郷産頑張れとフィーバーするという記録が残っているほど、西郷人気が高かった。新政府は、戊辰戦争の後、上野の山を全山没収してしまい、洋風公園に変えてしまってしまい、博物園(動物園)をつくってしまった。それが恩賜公園(天皇からいただいた証を残して)の由来である。西郷隆盛は、大久保利通などとの仲違いがあったのだが、寛永寺は江戸ッ子たちには憩いの場として、開かれたお寺だったのでその復興を願う人々も多かった。 その時に、新政府としては、公式表明をすることが立場的にできなかったので、それを暗黙に許したのだが、しかし、寛永寺に建物を建てる資源が全くなかったので、当時の喜多院の住職がどうせ壊さなくてはいけないので、本地堂を上野寛永寺に寄付しよう、ということになった。現在の上野の寛永寺根本中道は川越から喜多院の本地堂が移築されて出来た建物である。明治9年から12年にかけて移築され、国の重要文化財になっている。ここにも江戸と川越のつながりがあるということを知っていただけたらと思う。

これは明治30年の黒門から山門を見たところ。ここに塔があるのがわかりだろうか。これが多宝塔です。日吉(ひえい)神社のところにたっていたが、それが大正13年道路を切ってしまって全部なくなってしまった。払い下げのことがあったので、多宝塔も壊して、敷地内に移動した。昭和50年ぐらいまでは、潮音殿から客殿にいく間の通路のところにまるで竜宮城のように石で門があってその上に塔が立っていたのを覚えていらっしゃるかたもおられるでしょうか。その移動した時に、地面の中からまが玉、くた玉がはいった石の箱が出てきたす。中をあけると墨書で天海の名前が書いてある。寛永15年の火災のあと、ここに多宝塔を作った証である。喜多院に保管してあるので、機会がありましたら見て欲しい。

この茶畑からは、発掘調査を行った時に、室町時代の土抗(墓)を2基発見した。また多数の板碑が出てきて、室町時代にお寺として機能していたんだことが証明される。そんなことから明治30年の写真からお寺としてお茶畑、桑畑をしていたのではないかとも考える。(川越文化コンシェルジュ講座より)

 

川越のまちに足りないものは?

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7月3日の川越文化コンシェルジュ講座は、

川越蔵の会の原会長のお話でした。
 タイトルは「歴史的景観をいかしたまちづくりへの取り組み」

蔵の会の一番街を中心としが活性化にむけてのこれまでの努力は誠に素晴らしいもので行政、専門家、地方商店などの連携にもこれまでご苦労がうかがわれるお話でした。



川越文化コンシェルジュ講座で「川越のまちに足りないものは」を
 皆さんに聞いてみましたので、その意見をまとめて書き出してみました。
 これからの活動の参加にしたいと思っています。

以下「川越のまちに足りないものは」アンケート

ガイドになりたいので、市民観光ガイド育成の研修システムがあると良いです。
 川越駅から行き方に困っている人がよくいます。バスがわかりにくい。

川越織物市場を見学できるようにしてほしいです。そこで川越唐桟や
 できたら川越素麺など復活して売ってほしい。

できたらポケットパークごとに公共トイレを設置してほしいです。

市民の川越に対する郷土愛や「川越ならでは」に対する理解や深まってもっと自信を持ってほしい。

一番街の土、日、歩行者道にできないだろうか

土曜、日曜、祝日はまたは時間を決めて歩行者天国を設けてほしい。
 バス停があるのは便利でとてもうれしいが、道路の幅が車と人双方には
 狭すぎて、ゆっくり景観を見ることが出来ない状態である。

これからは川越近郊の宿泊を増やすために、観光協会などと提携し、宿泊施設を整備する。

行政の課題でもあるが、伝統文化の普及とともに
 川越新住民と市街中心地の交流を促進し、川越新住民も
 川越に対する郷土愛をもてるような活動を増やす。

蔵の街のリピーターを増やすために
 1 説明表示の数や位置
 2 目的地への順路表示
 3 通路の安全性
 4 蔵、寺、川、産物、食をつなげるパンフレット表示をつくる

緑の空間がほしい

居酒屋的なにぎわいが感じられる横丁、路地的空間の整備

夜のにぎわいづくりが必要

路地をもっと楽しくできないか

全国チェ-ンの店が増えてゆくのがさびしいので
 地元の若い人が活躍でき、この街を守ってもらえたら。

交通では、危険な思いをしている。

バスの利用方法がわかりにい。

このような意見が寄せられました。皆さん川越をよくしようと暑さの中、熱い思いが寄せられました。

明治の大火と蔵造りの町並み

1893(明治26)年、川越で大火が起きました。当時の総戸数の3割強にあたる

1,300戸数焼失とされていますが、実際は大半のたてものが焼けてしまったのです。

この大火の後にようやく出来たのが、蔵造りの建物です。明治の26年から30年当時、

東京の表通りは蔵造り町並みでした。銀座は国策で煉瓦造になりましたが、明治20年代は、

煉瓦よりも蔵を立てるのが主流でした。

煉瓦は技術者が足りなく、まだ庶民にはなかなか手が届かないものだったのです。

蔵だったら、農家の人が土ごねをし、田んぼの土で作ることができました。

材木も壁土も建具も、日本の建物はリサイクルが可能。当時は職人さんもたくさん

ました。日本建築はリサイクル可能な地球にやさしい建て方なのですね。

関東大震災で、東京は壊滅的打撃をうけました。東京では、武家屋敷と違い、町場は地盤が悪い

低湿地に作られていたので、地震では壊滅的打撃を受けました。その関東大震災以前の東京の町並み

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を彷彿と させる、その面影を残しているのが川越のまちなみとなって現在に生きています。

そのことを知っている世代は、じいさんが建てた家に誰も来てくれるはずはない、明治の新しい

建物にきてくれるわけがないとの考えが中心だったそうですが、今や街のシンボルとなる文化財に

なったのです。(川越文化コンシェルジュ講座より)