令和万葉集:多摩川に さらす手作り さらさらに なにぞこの児の ここだ悲しき

万葉時代は、一般の女性たちも、額田王や持統天皇などの

宮廷のトップも、農業や機織り、麻の刈り干しなどを職業とし、

生き生きと働いていました。特に布や衣服に関連する職業は

女性のものとされていました。こうした布は税として納められる

貴重な品々でした。現在の東京都、埼玉県、神奈川県の一部に

わたる武蔵国の多摩川流域の歌から、まず、そんな働く女性を垣間みて、

恋する東国の男性の歌った労働歌を見てみましょう。

 

多摩川に さらす手作り さらさらに なにぞこの児の ここだ悲しき

3373 たまがはに さらすてづくり さらさらに なにぞこのこの ここだかなしき

「多摩川にさらす手織りの布をさらさら音を立てて晒すように、

さらにさらに、どうしてこの娘が愛おしいのだろう。」東歌)

 

大昔の多摩川、さらさらと流れる川音に合わせ、布をさらして

いきいきと働く女性に恋をし、さらにさらにいとおしくて

たまらないと歌う和歌です。今も多摩川の流域に調布という

地名が残っていますが、武蔵国では税(租庸調の調)として、

麻の布を朝廷に納めていた名残です。この和歌は、そうした麻布

づくりの作業の際に皆で歌った歌のようです。万葉集十四巻は

そんな東国の歌がたくさん出てきます。

令和万葉集:いにしへに織りてし機を この夕へ 衣に縫いて 君待つ我を

古に織りてし機を この夕へ 衣に縫いて 君待つ我を 2064

いにしえに おりてしはたを このゆうへ ころもにぬいて きみまつわれを

ずっと以前から織ってきた織物を、この七夕の夕べには縫い上げ、あなたが来るのを待つ私

 

足玉も 手玉もゆらに 織る機を 君がみけしに 縫いもあえむかも2065

あしだまも だたまもゆらに おるはたを きみがみけしに ぬひもあへむかも

足に付けた玉も、手に巻いた玉も、ゆらゆらと揺らめき鳴らしつつ織る布を

あなたの着物に縫い上げることができかしら

 

棚機女は神聖な職業でもありました。足玉は、足首にまいた玉で、

手玉は手首に巻いた玉です。神を迎えるための巫女の姿です。

そんな玉がゆらめきながら、美しい音を鳴らしながら機を織るという姿は、

単なる労働としての機織りではなく、女性が巫女として祭祀とかかわる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

重要な仕事に関わっていたことを示しています。

令和万葉集:天の川と織姫の祈り

布を織ることは、洋の東西にかかわらず女性の大切な職業とされてきました。

そもそも七夕の起源は、天帝による罰であったと言われています。

天帝は、機織りの仕事に明け暮れる自らの娘を哀れみ、

牽牛に嫁がせたのですが、嫁ぐとすぐに娘は機織りの仕事を

一切忘れてしまうのです。天帝はこれを怒り、二星を引き離し、

一年に一度のみの逢瀬を許したのですが、それほど、

古代において機織りは重要な仕事であったのでしょう。

 

縦糸と横糸を紡ぐことは、永遠の命をつむぐこと、

子孫繁栄につながる象徴と考えられてもいました。

7月7日に五色の短冊に願いを書いて飾り、

天の川に祈る七夕の原型は万葉時代にもありました。

中国では七夕は牽牛と織女を祀る秋の行事で、

日本の宮中に伝来し、これに日本の棚機女

(たなばたつめ)の伝説が重なって一緒になったようです。

棚機女とは織物を織る女性の巫女のことです。機(はた)とは、

はつ(合わせる)という意味で、織ると同義語で織物の意味に使われています。

 

君に逢はず 久しき時ゆ 織る服の 白衣 垢付くまでに 2028

きみにあはず ひさしきときゆ おるはたの しろたへころも あかつくまでに

 

「あなたに逢うこともなく、ずっと久しく織っている白栲の衣も、

手垢が付くまでになってしまいましたわ」

七夕での逢瀬を待ち焦がれ、あなたのために心を込めて

織っている白い衣がああまりに久しい時のために手垢で

汚れてしまったという織姫の実感のこもった和歌です。

 

令和万葉集:天の川 霧立ち上る 織女(たなばた)の 雲の衣の反る袖かも

古代、織物は神への最高の捧げものでした。

清らかな汚れのない巫女が織る機(はた)織物は、

生命力の象徴として子孫繁栄を願って、穀物とともに神に捧げられました。

古事記ではタクハタチジヒメノミコトという美しい女神が織物を司っています。

ギリシア神話の中では,国民的英雄ヘラクレスが赤子のとき,

女神ヘラの乳房を強く吸ったため乳がほとばしって天の川となったとされ、

天の川は、英語では「MILKY WAY」と訳されます。

月の女神さまのおっぱいでもある天の川に、巫女たちは恋の成就から生命誕生、

幸福な家族や子孫繁栄を願って機織りものを捧げたのです。

天の川 霧立ち上る 織女(たなばた)の 雲の衣の反る袖か

2063 あまのかわ きりたちのぼる たなばたの くものころもに かえるそでかも

「天の川に霧が立ち上がっている。織女の雲の衣のひるがえる袖なのかなあ」

天武天皇が、「少女(おとめ)ども 少女さびすも 唐玉(からたま)を

袂(たもと)にまきて 少女さびすも」と、吉野の宮で琴を弾いて歌うと、

天女がこの五節舞(ごせちのまい)の歌を歌いながら、

雲とともに、袖を5回翻して舞ったという伝説があります。

 

冒頭の万葉歌ではそんな天女に織女を重ねた歌です。

雲を天女の衣に見立て、霧を袖と見立てています。

 

 

令和万葉集:天の川 棚橋渡せ 織女の い渡らさむに 棚橋渡せ

一年にたった一度のこの七夕の夜、万葉集の七夕歌には

とても楽しい歌があります。

天の川 棚橋渡せ 織女の い渡らさむに 棚橋渡せ

あまのがは たなはしわたせ たなばたの いわたらさむに たなはしわたせ2081

 

「天の川に橋を渡しなさいよ。織女様が渡って行かれるんだから、橋を渡しなさいよ」

 

さて、日本の七夕伝説では、彦星が天の川を

渡ってくるのを織女が待っているというのがお決まりのパターンです。

ところが、この歌では、彦星が来るのをじっと待っているなど

とてもしておられない。織女自ら天の川を渡らせてあげなさい

という歌です。

もちろん、後朝の別れの後、去っていく彦星のあとを追って

織女を渡らせてやりたいという思いで詠まれた歌とも解せます。

 

棚橋とは、板を渡しただけの簡単な構造の橋のことで、

中国の七夕伝説では渡るのは鵲(かささぎ)橋だったのですが、

日本では棚橋になりました。しかし、中国伝説の鵲橋も美しいイメージです。

牽牛・織女の二星が逢う七夕の夜、カササギが翼を並べてできる橋のことです。

待っていられない織女を見て詠んだと解せば、

「一枚の板でいいから、橋を渡し、二人を逢わせてお上げなさい」と言っているのです。

令和万葉集:彦星はいかにして天の川を渡るか

第十巻秋の雑歌には七夕や天の川を歌った歌が

九十八首もおさめられています。一年にたった一度の

この七夕の夜、日本の七夕伝説では、彦星の方が

天の川を渡って織女のもとにやって来るというのですが…。

 

「天の川がね、去年は歩いて渡る浅瀬があったのに、

その浅瀬が移ってしまっていてね。川の水の浅いところを

探してしていたら、こんなに深くなってしまったのだよ」

 

天の川を渡る方法は、舟を使うか、橋を渡るか、

川を歩いて渡るかの三通り。それに、七夕歌には、

一つの見事なシナリオでできあがっている歌の群もあります。

そうしたなか、いろいろ解釈できそうですが、

弁解がましい、しかし、いかにもありそう、

とても愛し合っている二人です。それだけに、傍から見ると、

とても大げさで、何だか少しおかしくもある、

でもやはり、すばらしい恋の歌です。

 

 

令和万葉集:家持先生、浮気男をいましめる

紅色の衣は、美しいけれど

色が褪せてしまうものだよ。

橡で染めた、地味でも

慣れ親しんだ着やすい衣に

勝るものがあろうかね。

 

紅は うつろふものぞ 橡(つるばみ)の なれにし衣に なほ及めやも

4109 くれなゐは うつろふものぞ つるばみの なれにしきぬに なほしかめやも

 

大伴家持が部下の書記官である史生尾張少咋(ししやうをばりのをくひ)が

遊行女婦(=遊女)の左夫流児(さぶるこ)に浮気したことを、やんわりと、

しかも、なかなか厳しくいましめる歌です。

この和歌の前にある和歌を次にご紹介しましょう。

 

あをによし 奈良にある妹が 高々に 待つらむ心 しかにはあらじか

4107あおによし ならにあるいもが たかだかに まつらむこころ しかにはあらじか

 

青丹も美しい奈良じゃね、ひたすらお前の帰りを待ちわびている。

その奥さんの心は、まったくもっともなことではないか。

 

 

「青丹も美しい奈良にいて、ひたすら待ちわびている妻の心は、

まったくもっともなことではないか。」

 

里人の 見る目恥はづかし 左夫流児(さぶるこ)に さどはす君が 宮出後姿(みやでしりぶり)

4108さとびとの みるめはずかし さぶるこに さどはすきみが みあでしりぶり

 

里人の見る目が恥ずかしいではないか。

左夫流児(さぶるこ)という女に迷っている君が出勤する後ろ姿は。

 

「里人の見る目が恥ずかしいではないか。左夫流児(さぶるこ)という女に迷っている君が出勤する後ろ姿は。」

ところが、その2日後、なんとくだんの妻が馬に乗って

都から乗り込んできたのです。つまり、越中にいる夫が都の

本妻を呼び迎えるための使いを出したのに、その使いも待たずに

みずからやってきてしまったのです。

そこで家持先生、大いにうろたえ、大仰に誇張をまじえ、こ

れはこれは大騒動出来(しゅったい)とばかりに、次の和歌を詠んだのです。

 

左夫流児が 斎きし殿に 鈴懸けぬ 駅馬下れり 里もとどろに

さぶるこが いつしきとのに すずかけぬ はゆまくだれり さともとどろに

 

 

これは大変! 

左夫流児殿が大切にお使え申す書記官殿のお屋敷に

駅鈴もつけずに早馬で本妻がのりこんだ。

里中鳴り響くばかりに息せききって。

 

 

本来、官道の駅家に備えた官人利用の馬は、

駅馬利用の資格を証明する鈴をつけているはずなのに、

それもつけずに、本妻が勝手に尾張少咋の館にやってきたのである

。尾張少咋と左夫流児は同棲していたのですね。

こういうふうに描かれた、嫉妬に狂った本妻の姿は、

中世にしきりに行なわれたという「後妻(うわなり)打ち」

の風習の起源を見ているようです。後妻に対して、前妻方が

日程を予告、相当数の人数で竹刀を持って襲うというもの、

やがて仲裁が入るのですが、死者が出たともいわれるオソロシイ風習です。

 

 

 

令和万葉集:縦さにも カニも横さも やっとこそ 我はありける 主の殿戸に

大伴家持の歌日誌を収めた第18巻には、次のような歌があります。

縦にも横にも やっとこさ

ご主人様の下僕でござる

カニように 生きるのさ

作者は大伴池主です。大伴家持は、国守(県知事)として越中へと

赴任するのですが、そこには大伴の一門の旧知の大伴池主が国掾(じょう)

として任務についていました。国司の三等官、県庁なら総務部長クラスというところです。

時は、藤原中麻呂が台頭してくる頃で、名門大伴家を守っていくという

強い意志を二人は共有、歌ともだちとして交流していました。

後に、橘奈良麿による藤原仲麻呂打倒の乱に、池主は加わわるのですが、

このことが事前に発覚し、姿を消してしまい、これ以降、大伴家は衰えてゆきます。

それはさておき、ユーモラスなコトバ遊びが楽しめます。

 

 

縦さにも カニも横さも やっとこそ 我はありける 主の殿戸に

4132たたさにも かにもよこさも やっとこそ あれはありける ぬしのとのどに

「たてにもよこにも、ともかく私は下僕としてあったことだった。御主人であるあなたの御門にて。」

令和万葉集:この頃の 我が恋力 記し集め 功(くう)に申さば 五位の冠

最近 俺が女にどれくらいつくしているか

俺の恋の労力といったら、並大抵のものではないぞ

文書に書き起こしたら

きっと、五位の位階はもらえるくらいだぜ。

 

いわゆる力役も財物となりました。銭や稲など献納することで、

官位が与えられる献物叙位は多くあったのです。

そういう社会を背景におもしろおかしく詠まれた歌です。

この頃の 我が恋力 記し集め 功(くう)に申さば 五位の冠

3858このころのあがこひぢから しるしあつめ くうにまをさば ごゐいのかがふり

 

令和万葉集:勝間田の 池は我知る 蓮(はちす)なし しか言ふ君が 鬚なきごと

第十六巻には、ナンセンスなこっけいな歌がたくさん登場します。

次の歌もそんな戯れ歌のひとつです。

 

勝間田の池って良く知っているけれど、

蓮なんてあるもんですか。

蓮があるというあなたに

鬚(ひげ)がないのと一緒でしょ。

 

勝間田の 池は我知る 蓮(はちす)なし しか言ふ君が 鬚なきごと3835

かつまたの いけはあがしる はちすなし しかいふきみが ひげなきごとし

 

蓮は恋と同音で、美女や恋の意味を暗示しています。

「蓮なし」というの

は、恋愛の情が薄いことを意味し、私に対して

薄情だわと戯れています。当時、一人前の男なら鬚(ひげ)があって当然!

それがないから情も薄いのよね