『うつくしの街川越〜小江戸成長物語』出版しました

川越散策がもっと楽しくなる「ディープな川越」を書籍で発信

『うつくしの街川越~小江戸成長物語』(監修=山野清二郎・松尾鉄城/編集企画=寺島悦恩・小林範子、6月30日発売、2500円+税、400ページ)が株式会社一色出版(東京都文京区本郷)より刊行になりました。

川越が辿ってきた歴史・文化、美術、観光、この一冊で川越つうになれる「ディープな川越」を凝縮、今日の川越の創造性にまで言及、横断的に綴った初めての書籍です。

川越を代表する各専門家の知識を集めてトータルにアピール

きっかけは、2015年から地域の魅力を語る活動として、地域のおもてなし人材養成のための講座の企画運営を3年間で30回行ったこと。

これまであまり地域に関わりを持ってこられなかった市民の方々が新たに川越の魅力を感じ、地元に誇りを持ち、魅力を発信できるコンシェルジュのような人材を養成したいという思いからでした。

そして、これまでの活動の集大成として、川越という地域をアピールする各専門家(十数名)の知識を結集した、デイープなまちの魅力を伝える本を出版することになりました。

歴史・文化・美術・まちづくり・観光の視点から川越を横断的につなげる

観光という視点から見たとき、通り一遍の観光ではいずれ飽きられてしまいます。地域の特徴を生かしたツーリズムの提案が必須で、地域をさらに盛り上げるべく、川越の文化や歴史、まちづくりの貴重な魅力を次世代に伝えることができたら、そんな思いで本書を作りました。

さらに、海外や国内から何度も訪れてくださるディープなファンをつくるその一歩になること目指したいと思っています。

時の鐘

  今や、年間700万人を超す観光客が訪れ、一大観光都市となった川越をかたちづくる江戸から令和までの成長の知恵、さらに持続的社会のモデルについてなど、研究者や商家をはじめ15人が紡ぎ出す言葉を手掛かりに川越のアイデンティティに直に触れることができたらと思います。

そして川越の魅力を歴史・文化・美術・まちづくり・観光の視点からトータルに綴った「川越を横断的につなげる」はじめての書籍となります。と同時に、全国各都市を語る書物のモデルになればと思っています

  今回、出版に際し、定価を下げて若い世代にも購入しやすくし、また、学校図書館を含め、公共施設等に配布するために、クラウドファンデイングを利用、成功しました。https://readyfor.jp/projects/kawagoebook

 出版社 株式会社   一色出版(担当:岩井峰人)〒113-0033東京都文京区本郷4-34-3-1F TEL03-6801-6905/FAX03-6801-6915

江戸から令和までの成長の知恵、持続的社会のモデル

紹介webページ:http://www.isshikipub.co.jp/2019/06/13/kawagoe/

『うつくしの街川越~小江戸成長物語 』書籍の概要はというと、以下のような15人の著者による16の川越の魅力を綴りました。

序章 川越イノベーション・リノベーション

第一章 蔵造りと洋風建築の町並みを歩く

第二章 喜多院の歴史と文化財を訪ねて

第三章 知恵伊豆そして家康の血をひく大名も城主になった川越藩

第四章 川越祭ーー世界が認めた小江戸の大祭ーー

第五章 川越と江戸・東京を結んだ新河岸川舟運

第六章 名産 川越唐桟と川越イモ

第七章 循環型農業のモデルとしての武蔵野・三富新田

第八章 服部家にみる川越町家の暮らし

第九章 江戸初期川越の町人像

第十章 川越城下の総鎮守氷川神社

コラム 河越太郎重頼の墓のある養寿院

第十一章 川越の美術ー岩佐又兵衛、狩野吉信、小茂田青樹、小村雪岱を中心に

第十二章 現代の川越のまちはどのように形成されてきたか

第十三章 一番街商店街と町並み委員会

第十四章 川越蔵の会ー歴史的景観を生かしたまちづくりへの取り組み

第十五章 魅力ある川越観光の創出へ向けて

コラム 菓子屋横丁が蘇った

以下のような執筆者による書籍です。

修 山野清二郎 松尾鉄城

編集企画 寺島悦恩 小林範子

執筆      荒牧澄多  井上浩  可児一男 梶川牧子 粂原恒久

金剛清輝 寺島悦恩  長井和男 羽生修二 服部安行 原知之

松尾鉄城 松本富雄 溝尾良隆 谷澤勇  山田禎久 山野清二郎

表紙デザイン 櫻井理恵(敬称略)

川越の文化や歴史など、まちの魅力を次世代に伝えるその一歩へ

本書を構想するきっかけとなったのは、2015年から川越の文化、歴史、まちづくり、観光資源など多様な分野の専門家に川越の魅力を語っていただき、これまであまり地域に関わりを持ってこられなかった市民に新たに川越の魅力を共有し、地元に誇りを持ち、川越の魅力を発信できるコンシェルジュのような人材を養成したいという思いからでした。

30回の講座で参加者はのべ2000人になり、終了することが惜しまれ、多くの方から継続を希望される声があり、本という形でなら、もっと多くの方々、さらには、川越市外の方々、そして、全国の方々にも川越の魅力を知ってもらえるのではないかという話がまとまり、書籍を作ることになりました。

 一から制作を始め今日まで実に3年以上がかかりました

しかし16章からなる400ページの写真入りの書籍の出版となると制作コストもかさみ、少部数の出版にすれば、書物がかなり高額な定価になってしまい、それ避けるとともに同時に宣伝広報として利用させていただくためにも、クラウドファンデイングを利用、100万円を集めることができました。

皆さんからいただいたご支援は、より多くの方に読んでいただけるよう、手に取りやすい価格にするために活用させていただくとともに、川越市内の小中学校や市内にある高校および図書館などの公共期間に配布させていただけたらと思います。

こうして、江戸の文化を伝え、観光客で賑わう「川越」のディープな魅力を伝える書籍の出版。歴史、文化、まちづくり、観光と横断的に各分野の専門家から次世代に伝えたい地域の貴重なお話をまとめました。シニアから若い人々や新しい住民に伝えていきたいと思います。

川越を始め全国の地域の出版物のモデルケースになればと思っています。


令和万葉集:新元号の令和は万葉集から

新元号が発表されました。「令和」という元号は、万葉集から、
とったものということです。
新春の令月にして気淑く風和らぎ、梅は鏡前の粉を開き、
蘭ははい後の香を薫らすという出典から
取られました。大伴旅人の和歌です。

万葉集巻第五 815~
梅花(うめのはな)の歌三十二首并せて序

天平二年正月十三日に、
大宰師の大伴旅人の邸宅に集まって、
宴会を開きます。
初春の、空気はよく風は爽やかに、
梅は鏡の前の美女が、
装う白粉のように開いて、
蘭は身を飾った香のように薫っています。

それだけでなく
明け方の嶺には雲が移り動き、
松は薄絹のような雲を掛けて
きぬがさを傾け、
山のくぼみには霧がわだかまり、
鳥は薄霧に封じ込められて
林に迷っています。
庭には蝶が舞い、
空には年を越した雁が帰ろうと飛んでいます。

ここに天をきぬがさとし、
地にとして、膝を近づけ酒を交わし
人々は言葉を一室の裏に忘れ、
胸襟を煙霞の外に開いて、
淡然と自らの心のままに振る舞い、
快くそれぞれがら満ち足りています。

これを文筆にするのでなければ、
どのようにして心を表現したら良いのでしょう。
中国にも多くの落梅の詩があるのですから
いにしへと現在と何の違いがあるのでしょう。
庭園の梅を詠んで和歌を作ろうではないですか。

この漢詩風の一文は、
梅花の歌三十二首の前につけられた序で、
書き手は不明ですが
おそらくは山上憶良(やまのうへのおくら)
の作かと思われます。


その内容によると、天平二年正月十三日に
大宰府の大伴旅人の邸宅で
梅の花を愛でる宴が催されたとあります。
このころ梅は大陸からもたらされたものとして
非常に珍しい植物だったようですね。当時、

大宰府は外国との交流の窓口でもあったので
このような国内に無い植物や新しい文化が
いち早く持ち込まれる場所でもありました。

この序では、前半でそんな外来の梅を愛でる宴での
梅の華やかな様子を記し、ついで
梅を取り巻く周囲の景色を描写し、
一座の人々の和やかな様を伝えています。
そして、中国にも多くの落梅の詩があるように、
「この庭の梅を歌に詠もうではないか」と、序を結んでいます。


この後つづく三十二首の歌は、
座の人々が四群に分かれて八首ずつ順に
詠んだものであり、各々円座で回し詠みしたものとなっています。

大伴旅人が太宰府を去ることになって、
その別れを偲んだ、万葉時代の旅だの和歌につけた
曲です。「から人の衣染むといふ」
https://youtu.be/VnnFo4PgjQo
という曲を以前作りましたが、

新元号に万葉集の言葉が生かされて
喜びもひとしおです。

令和万葉集:恋のいろいろ:大伴田主と石川女郎の場合

クールな美男子、大伴田主(おおとものたぬし)に恋をした

石川女郎(いしかわのいつらめ)は同棲したいと思っていた

のですが、なかなか進展しません。そこで、一計をめぐらせて、

なんと、老女に変装、土鍋をさげて、田主の家に。

「卑しいものが火を貸してほしいと来ました」

と玄関の戸をたたきました。

ところが当の家主、女郎の変装にはまったく気づかず、

火を貸して返してしまったのです。夜が開けてから、女郎は、

恋の仲介人なしに押し掛けてしまったことを恥ずかしく思い、

また願いがはたせなかったことを恨めしく思って作った歌です。

 

遊士(みやびを)と われは聞けるを 屋戸貸さず われを還せり おその風流士(みやびを)

「風流な人だと聞いていたのに せっかく来たのに私を泊めずに返してしまった。

鈍い『みやびお』もあったものね。」(石川女郎)

 

それに対して、田主の返歌といったら、

遊士(みやびを)を 我はありけり 屋戸貸さず 帰しし我を 風流士(みやびを)にはある

「泊めずに返した私こそ 「みやびお」だと思うがね。」(大伴田主)

この当時、恋の和歌はどのように伝えられたのでしょう。

恋の和歌をとりもったのは玉梓(たまづさ)の使いです。

一目を忍びながら、二人の間を行き来して、恋を実らせた

のは彼らなのです。時には恋の相談役になってくれたり、

気持ちを慰めてくれる役でもあります。石川女郎はそんな

使いがいなかったからでしょうか。使いを通さずに、直接に

自分から押し掛けるという行動に出たのです。それにしても

大胆な女性ですね。

令和万葉集:恋のいろいろ:恋多き万葉歌人、坂上郎女ストーリー

万葉女子は恋の達人。

恋多き万葉歌人、坂上郎女のストーリーの続きです。

 

その後、坂上郎女は年老いた異母兄の大伴駿河麻呂に嫁ぎます。

駿河麻呂との間に生まれたふたりの娘、坂上大嬢と二嬢の娘二人は

坂上の屋敷で育ちました。父の田村の家には母の違う姉妹が暮らしていて、

異母姉妹が会う機会は少なかったのですが、暖かな交流は続いたようです。

大伴駿河麻呂が亡くなった後も坂上郎女は多くの男たちと愛の和歌の

やりとりをしました。万葉集には、そんな郎女が折々に歌った恋の歌があります。

 

われのみぞ 君には恋ふる わが背子が 恋ふとふことは 言の慰ぞ 656

恋をしているのは私だけ。あなたは言葉だけでしょ。」

 

恋ひ恋ひて 逢えるときだに 愛しき 言尽くしてよ 長くと思うはば661

 

「逢いたくて逢いたくてやと逢えたこの時だけでも、

優しいことばをちゃんと聞かせてよ。この恋を長く続けようと思うなら。」

 

 

令和万葉集:家にありし櫃に鍵さし おさめてし 恋の奴のつかみかかりて

恋多き、万葉女性、大伴坂上郎女の人生、特に前半生は

ドラマチックでした。10代で結婚しましたが、お相手の

例の穂積皇子。モテる穂積親王でしたが、すでに40歳を

こえてさすがに歳を感じながら、大伴坂上郎女を寵愛します。

そんな和歌が宴会の余興で歌ったものとして残されています。

 

家にありし櫃に鍵さし おさめてし 恋の奴のつかみかかりて(穂積皇子)

3816いへにありし ひつにかぎさし おさめてし こいのやっこの つかみかかりて

「家にある櫃に鍵をかけて ちゃんとしまいこんでおいたはずなのに、

あの恋の奴めが、しつこくまたまたつかみかかりおって…。」

 

しかし、郎女と結婚して1年で、穂積皇子は亡くなってしまいます。

郎女は、実家の近くの坂上の地に移り住みました。

しばらくして藤原不比等の四男である藤原麻呂の恋人となります。

藤原麻呂は左右京大夫 (現在の知事) 忙しい仕事の合間をぬって、

夜になると坂上の屋敷を訪れたましたが、麻呂の足が遠のくとともに、

二人の関係も自然に解消されてしまいました。

 

来むといふも 来ぬ時あるを 来じといふを 来むとは待たじ 来じといふものを527

こむというも こぬときあるを こじといふを こむとはまたじ こじというものを

「来るといっても来ないんだから、来ないといったら来るのかしら。

でも、あてにはしないわ。だってあなたは来ないと言ったのだから」

(続く)

令和万葉集:百年に 老舌出でて よよむとも 吾がいとはじ 戀はますとも

三十代の紀女郎と二十代の若き大伴家持、かなり年の差の

あるカップルでした。しかも女性の方が十歳も年上ということを

気にしていたようでもあります。

 

百年に 老舌出でて よよむとも 吾がいとはじ 戀はますとも

ももとせに おいじだいでて よよむとも われはいとはじ こいはますとも

「あなたが百歳になって 舌を垂らしたよぼよぼのおばあさんになっても

嫌になんかならないよ。戀の思いが増すことはあっても。」(大伴家持)

 

 

 

まだ若い家持が、退廃的なデカダンスの香りを漂わせた歌を

おくります。おまえ百までわしゃ九十九まで、官能的にともに

命はてるまで、愛し合いましょうと言っている家持ですが、

いろいろな女性に目うつりしつつも、関係は続きます。が、

結局はまた坂上大嬢と結ばれたりするわけですから、

紀女郎にそんなに逢えるわけでもありません。

 

言出しは 誰が言にあるか 小山田の 苗代水の 中よどにして

776ことでしは たがことにあるか をやまだの なはしろみずの なかよどにして

「あなたが先に言い出したんじゃないの。それなのに

山田の苗代の水のように途中で淀んだりするなんて!」(紀女郎)

令和万葉集:万葉カップル 恋のいろいろ:大伴家持と紀女郎の場合

万葉カップルの恋のやりとりは、情熱的で、ウイットに富んで、

ユーモアにあふれ、時にはドスがきいて…ま

ずは、若き日の大伴家持と紀女郎(きのいらつめ)の恋の駆け引き

をご紹介しましょう。紀女郎は、たわむれに家持を「しもべ」と

いう意味の「戯奴(わけ)」と呼んでいます。家持もその芝居に

楽しくのっかっています。

 

戯奴(わけ)がため 我が手も須磨に 春の野に 抜ける茅花を をして肥えませ

1460「家持君のために 一生懸命引き抜いて来た茅花よ。

どうぞ召し上がって 太って(もっと健康になって)くださいな。」(紀女郎)

我が君に 戯奴は肥ふらし 賜り(たばり)足る 茅花を食めど 

いら痩せに痩す

1461「我がご主人に 私めが恋焦がれているからでしょうか。い

ただいた茅花を食べましたが太るどころかやせる一方です。」(大伴家持)

 

太る痩せるは現代のように古代も人々の関心のある話題のようですが、

当時は痩せている方が問題だったようです。

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令和万葉集:万葉人と夢

今日では、夢そのものは、脳の働きとして、深層心理の

現れであったり、記憶の整理、あるいは、意識としては

忘れたいことが現れたりするというように考えるのが

普通ですが、夢は自分の中からではなく、テレパシーの

ように外から来るものと万葉人は考えていたようです。

 

吾妹子が いかに思へか ぬばたまの 一夜も落ちず 夢にし身ゆる3647

「わが妻がどのように思っているからなのか、一夜もかかすことなく夢に現れる。」

 

万葉人は、強く思っている相手の夢には現れることができると

考えていたようです。言ってみれば、現代の私たちには考えられないほど、

夢は魔法の力を持っていたとも言えます。

 

中世の文学にも登場する 奈良の長谷寺十一面観世音菩薩

 

 

相思はずは 君にはあるらし ぬばたまの 夢にも見えず

祈誓(うけひ)て寝れど 2589

「あなたは私のことを思ってはいないのね。 祈誓をして寝ても夢にあらわれないなんて」

 

祈誓(うけい)というのは、神に誓いをたてて寝ることで、

夢の中で答えがえられるというものですが、うまくいかないこともあったわけです。

 

袖を折り返して寝ると夢で思う人に逢える、というおまじないもありました。

吾妹子に 恋ひてすべなみ 白栲の 袖返ししは 夢に見えきや 2812

 

2812 「いとしいあの子がが恋しくてたまらないので、

袖口をおりかえして寝たけれども、夢に私は現れただろうか。」

 

袖を折り返して寝ると、恋する相手が夢にあらわれると

信じられていました。自分が見た夢は相手も同時に

見るものも考えられていたのです。

令和万葉集:万葉人の恋と夢「赤い紐で結ばれた二人」

旅の夜の 久しくなれば さ丹つらふ 紐解き放けず 恋ふるこのころ 3144

「旅の夜を重ねることも久しくなったので、赤く美しい紐を

解き放つこともせず、恋しく思うこのごろです」

 

「赤い糸で結ばれた二人」とは、今もわたしたちがごく

普通に使う表現ですが、万葉人にとっても、男女のいわゆる

魂結びに関係して赤い紐が用いられました。別れに際し、

互いに固く結び、再会まで解かないのが原則でした。

水浴びするときなど、そのまま入ったのかどうか、定かでは

ないのですが。もちろん「妻の赤く美しい紐を解き放すことがなく」

という解釈もあるのですが、こうした男女が赤い紐に魂を結ぶと

いう風習があったならば、素敵なことですね。

 

 

吾妹子し 吾を偲ふらし 草枕 旅のまろ寝に 下紐解けぬ 3145

「いとしいあの子が私を思っているらしい。

草を枕に着衣の紐も解かず寝たはずなのに、下紐が自然に解けたことだ。」

 

恋人や離れた妻が強く思っていると、自然に男の下紐が解ける

と考えられていました。また、下紐が解けるのは、恋人が来訪する

予兆とも考えられました。まるで、強く望んだり、相手に逢おうと

夢みること自体が、呪力性を持ってそうした現象を引き起こすと

信じられていたようです。

令和万葉集:万葉人が信じていた、ユニークな恋のジンクス

万葉人が信じていた、ユニークな恋のジンクスを

ご紹介しましょう。

何だか眉がむずがゆい、くしゃみがでそうなのは、

現代人なら風邪や花粉症のせいだと思ってしまうで

しょうが、万葉人は恋人に逢える兆候だと思っていました。

衣服の紐が自然にほどけるのも、また相手が自分を

思ってくれている印だったのです。

(男の歌)


眉根痒き 鼻ひ紐解け 待てりやも いつも見むかと 恋ひ来し我を

「眉を掻いて、くしゃみをして紐をほどいて待っていてくれたんですか。

あなたのことのことばかり思っている僕のことを」

(女の歌)

今日なれば 鼻ひ鼻ひし 眉痒み 思ひしことは 君にしありけり

2809「たしかに今日はクシャミも出るし、眉も痒くてたまらなかったわ、

それはあなたのせいだったのね。」

この2首の男女の恋のやりとりは、柿本人麻呂歌集として2408番に載る

類歌を用いたものです。

 

くしゃみをするのは人が自分を思う兆し、というジンクスに基づき歌った和歌をもう一首。

うちはなひ 鼻をぞひつる 剣大刀 身に添う妹し 思ひけらしも 2637「くしゃんと、くしゃみをした。腰に帯びる剣の太刀のように、いつも我が身に寄り添う妻が、今僕のことを思っているらしいよ。」

相手が自分のことを思ってくれているか、今夜はきてくれるのか、恋は不安で、つらくて、切なくて。そんな気持ちは今も昔も変わらないですね。