江戸時代の町割りを残す川越の街並み

現在の場所に川越城が築かれたのは1457年のことです。

少し歴史の話をしますと、室町幕府は、足利一族を鎌倉公方として関東の支配権を与えたのですが
1455年5代鎌倉公方足利成氏は8代将軍足利義政に反旗を翻し、鎌倉公方を補佐する関東管領
上杉氏とも対立し成氏は本拠地を古河へと移し、古河公方となります。このように古河公方と堀越公方と
いう二人の公方が関東で対立するこになりました。
その際、鎌倉方の最前線として、岩槻、川越、江戸に拠点が置かれました。川越の中心は、それ以前は
入間川の河畔にあった河越の館でした。大規模に拡張されたのは江戸時代になってからです。
河越から川越という表記に変わったのも江戸時代になってからのことでした。

松平伊豆守信綱候が、この川越に殿様として来られた時の大きな仕事が、この川越城の整備と
十か町四門前郷分町(じっかちょうしもんぜんごうぶんちょう)という街並みの整備でした。
1638(寛永15)年の大火事の後のことです。

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山崎家別邸から庭を眺める

 

 

松平信綱の時代に川越は十か町四門前郷分町(じっかちょうしもんぜんごうぶんちょう)という、
近世の模範的な城下町の区割りを完成させました。その特色は東側は自然要害。田植えを
する時に腰あたりまで水に使ってしまので田舟を使って田植えをしていたのです。
西側は大地、家光の時代はまだいつ豊臣の残党、つまり真田など最後まで抵抗した
人たちが攻めてこないとも限らないということで、お寺はほとんど今の蔵づくりの
町の西に移動させられました。養寿院、行伝寺、蓮馨寺、妙養寺が四門前を形成しています。

今まちを歩くとなぜこんなにお寺が集中しているのかと思うでしょう。焙烙灸の妙昌寺などは、
もともと足利義満の時代には蔵造りのまちなみにありました。
いかに軍事的に安定した町にするかということを考え町割りを整えたのが信綱なのです。
この街並みは現在でもほとんど変わっていません。

川越の町並みで一番大きな変化をしたのは、昭和の初期の近代建築が集まっている中央通りの部分です。
仲町から本川越までぶち抜いた通りであるが、本来の街道というのは、札の辻から仲町そして、
左に折れて、商工会議所からまっすぐ所沢街道に繋がるというものでした。今その中央通りでは今、町の人たち
が昭和の町づくりという運動を始めています。

道路は、入間川街道、東京(川越)街道、坂戸方面、松山方面、上尾方面というように、十か町から放射状に
広がっていますが、また、久保町から東西にのびる道は昭和になってから新しく出来た道でもあります。

川越街道は江戸時代からの街道で、日本橋から出発した中山道が板橋宿の平尾追分で分岐し川越まで至る
道です。「九里(栗)よりうまい13里半(さつまいも)」、川越は江戸から13里の道のりです。中心商業
地域はそのまま商業系用途地域に、武家地だったところはそのまま住宅系用途地域になっていますが、
人間関係など引き継いている部分もあり、新しいアイデアやしくみなどがか簡単には実現しにくいという

難しい一面も持っています。(川越文化コンシェルジュ講座より)

クレアモールと川越の変遷

川越駅東口のクレアモールの現在の風景です。昔の所沢街道であった幅の狭い
道の両サイドに若者向けの店舗が集まっています。地元の買い物客と観光客など
通り道で賑わい、クレアモール商店街の通行量は埼玉県内で1位となっています。

川越の都市の基盤は江戸時代にできています。現在でも本来の中心
商業地域はそのまま商業系用途地域に、武家地だったところは
そのまま住宅系用途地域になっています。変わったところ、というか
加わわったところは、この駅の周辺部あたりです。

この川越駅周辺は、江戸時代の地図を上に重ねてみると何もない場所で
もともと武家地だったところが、明治以降は桐畑になっていました。
川越箪笥の産地だったのです。

「娘十八かわごえだんす 添へてやりたや振袖に」(西条八十)それくらい川越は
箪笥づくりが盛んで、昔から女の子が生まれると庭に桐の木を植えるという習慣が
の娘が年頃になってお嫁入りするときは、「桐たんす」を人竿、その基盤を作ったのは
江戸お松平信綱の時です。

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けれども、鉄道の駅が発達して、街の中心地は駅の周辺に移ってゆきました。
昭和40年頃からの変化です。マルヒロデパートは昔は一番街にあったのですが
昭和39年、現在のクレアモールに移転しました。長崎屋、富士銀行なども移転、
専売公社も警察も消防も税務署も南に移転ました。その結果、一番街がさびれて
ゆくことから、旧中心市街地の保存運動が生まれてきます。

ちなみに、昭和30年代後半の高度経済成長時代、川越は首都圏のベッドタウンと
位置づけられ、川越周辺部にどんどん家が出来ました。
最初は、新河岸周辺、40年代には角栄団地、東急団地、住友団地、50年代には
川鶴団地、60年代には伊勢原団地が出来て、急速に街が広がってゆきました。

平成2年、第2種都市再開発事業で駅前にアトレが出来ます。
東口駅前のごちゃごちゃした建物をビルのテナントに置き換えて開発する事業でした。

さらに、昔の川越のはずれもはずれ、現在の川越駅西口には少年刑務所がありました。
今は跡地を中心に土地区画整理事業が行われ、公共施設、道路、公園が整えられ、
平成25年、ウエスタ川越が開業しました。

百年でこんなに変わった川越の鉄道

副都心線が開業して 東横線・みなとみらい線と直通運転がはじまったのは2013年のこと。
川越から新宿、渋谷、さらに横浜まで直通でいけるのは、市民としては大変便利になったなあと感じています。
また、西武線の本川越駅も西口と駅前広場が出来、川越市駅、本川越駅、川越駅とバラバラだったエリアが回遊しやすくなりました。

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ところで、川越に最初に鉄道がひかれたのは、明治28年(1894年)のこと。日清戦争が終わり、
講話条約が結ばれた年のことです。現在の西武線の本川越駅が、川越ではじめてできた駅です。
本川越から所沢経由で国分寺に抜け、中央線とぶつかるという鉄道です。

明治20年代は、織物産業が盛んな時代。所沢は関東有数の織物産地として発展しました。
川越織物学校(現川越工業高校)の卒業生が「湖月縮」というちじみ織物をつくり発展しました。
竹久夢二が絵葉書や中山晋平による所沢小唄など宣伝も盛んに行われます。もともと直に東京に
出荷するルートがなく、鉄道を敷くことに商人が尽力したという経緯があったのです。

大正3年、東武東上線が開業します。東京と上州渋川までを結ぶという意味で東上線と
命名されましたが、その後、国鉄高崎線が出来たため、この計画は寄居で止まってしまいました。

そして、東上線開業の際に、六軒町に川越町駅が出来ました。さらに、その後、川越に国鉄が
敷かれることになって、今の川越駅が新しく作られ、もともとあった川越駅が本川越駅という名称になったのです。

当時は、川越に鉄道が敷設されるのに反対だった議員などもいて、川越では中心街に鉄道は
建設されませんでした。そのことから現在街の中心地は駅よりの南に移り、旧中心市街地が北に残るかたちになりました。

鉄道の前は、285年間、江戸と川越を結んだ船が毎日行き来していました。主に荷物
を運んでおりましたら、早船という、人を乗せる専用として作った特急のような舟もありました。
その早船では、午後3時に川越新河岸を出たとして、翌日12時に東京荒川沿いに着くと、だいたい22時間ほどかかっていました。

その後、明治14年、高崎線が上野から高崎まで開通した時、川越から大宮まであるいは浦和まで
歩いて行って、そして汽車に乗って東京に行くという人がだんだん出てきて、人々はほとんど船を使わなくなったそうです。

イタリアの魅力とルネッサンス芸術

西洋の文化を理解する上で、どうしでも避けて通れないのが、
ギリシャローマ神話とキリスト教です。ギリシャ神話の題材などは
現代まで映画や文学、彫刻、さまざまなところに繰り返し生かされて
います。これからソフトパワーの時代にあって、西洋文化を理解する
ために、またみずから発信するためにもこのような歴史の厚みを知って
おくことは重要と考えられます。

西洋の人々の精神的源流は古代ギリシャ・ローマにあるといえます。
この時代を古典古代といいます。その後 中世キリスト教の時代を経て、
ルネッサンスに古代ギリシャ・ローマ文化が再生します。

13、14世紀のイタリアでは、多くの都市国家が成立しました。
そこでは、織物や商業・貿易業など市民の同業者の組合が経済力を持ち、
聖堂の建設など美術家を雇ったり、力を発揮しました。

フィレンツエのメデイチ家は、銀行業を営んで、莫大な権力を掌握し、
航海での東方貿易では価値ある文物を手にいれます
今日風に言えば、メセナ(学芸擁護者)として、学問・芸術・建築の
パトロンとなり、質的にも量的にも従来とはスケールを異にする旺盛な活動を
展開しました。この時期コジモの人文主義的個性も相俟って古典研究にも力を
注ぎました。文芸を愛好したことから多くの芸術家に仕事を提供する当代一の
大パトロンとなりました。

ヨーロッパで最初の図書館ともなるサン・マルコ図書館、バチカン図書館、
フィエ-ゾレのバディアにも宗教書の図書館が創設されていきました。多数の
筆写家が雇われ写本が生み出される等書籍コレクションにも傾注しました。
また、プラトン・アカデミーの構想と援助、アリストテレス研究の援助等々、
学術サークルの援助も惜しみませんでした。

古典文献の収集のみならず、古代の美術品や工芸品も寄せ集めました。
建築活動も前例の無いスケールで行われ、ジョバンニの代に着手されたサン・
ロレンツォ聖堂の改築事業の推進、サン・マルコ修道院の再建事業やその他
各地の聖堂、図書室、巡礼者宿泊所の建設を指揮しています。

工房では、万能の職人芸術家が生まれ、ダンテや美術では14世紀のチマブーエや
ジョットにはじまり、16世紀のダビンチ、ミケランジェロやラファエロが現れます。
特に『神曲』はトスカナ語で書かれた重要な作品です。内容的には、著者のダンテ
自身が古代ローマの詩人ヴェルギリウスの案内で、地獄、煉獄、天上界を旅すると
いうもので、キリスト教世界観と、ダンテ自身の価値観双方が含まれているという
意味で、中世カトリック文化とルネサンス文化の橋渡しをしたと考えられています。
(源氏物語の京都と一緒)

(15世紀には)キリスト教とは異教であるはずのギリシャ神話の神々
が芸術絵画の主題になって、宗教のみの題材では表現できなかった多く
の可能性が表現できるようになりました。神々は自由で裸体であったり、
美しく見るものを喜ばせながら、神話に託された深い意味を味わえるという
大変な魅力的な素材で、その後一人歩きをはじめます。

ルネサンスの人々にとって古代はイマジネーションの宝庫でした。
また、ルネサンス以前は自然はどちらかというと野蛮な存在でした。
(日本人の完成と違ってネイチャーた対立するもの)
ルネッサンスでは古代ローマのヴェルギリウスに代表される古代の
詩人が歌う森と田園や羊飼いたち(彼らは詩人であり音楽家であり
恋するものである)、アポロやムーサであり、美しい妖精や半獣神
パンが住む理想の世界でした。アルカデイアが理想世界でした。
こういったことが芸術作品に反影されるのです。絵画や彫刻、音楽だけでなく、
現代の企業のブランドや映画、あらゆるところに隠れています。(例 ナイキ
ギリシア神話に登場する勝利の女神)NIKE

川越ストーリー①寺:喜多院

IMG_4329喜多院(無量寿寺)のはじまり

喜多院は、平安時代、淳和天皇の勅により天長7年(830)慈覚大師円仁により創建された勅願寺である。川越の仙波 の地には古墳群に囲まれている場所があり、聖徳太子の活躍する以前、多くの住民が生活していた。下小阪古墳群、的場古墳群、南大塚古墳 仙波古墳群など古墳群が密集しています。寺には、本尊阿弥陀如来をはじめ不動明王、毘沙門天等を祀り、無量寿寺と名づけた。

大和朝廷は、百済から伝わっていた仏教思想にもとづいてで天皇中心の政治を行う律令国家として、関東一円の完全な支配を目指した。

それまで日本では、広く自然崇拝のアニミズムが浸透していたので、仏教思想を広く民衆に知らしめていかなければならない。中臣鎌足たちが大化の改新以後、仏教を広めながら日本の国を統一する動きの中で、川越の仙波の地も寺が作られたわけである。 これが喜多院のはじまりである。

その2年前には松島の瑞巌寺など建立した円仁高僧であるが、無量寿寺を建立したあと、遣唐使(僧)として中国に渡り、837年から845年の9年間、仏教、政治のあり方などを学んだ。
2年前に、中国の長安、河南商登封(とふ)市の法王寺で円仁という文字が刻まれた石が発見された。考古学的な物的証拠が見つかったわけである。その頃は、道教思想が広まって仏教弾圧がされた。そこで法王寺の寺宝を失ってはいけないと土に埋め、その際、証を文書にして石に刻んだものを一緒に埋めた。

(円仁の肖像画は群馬県の世良田にある長楽寺というお寺に。ここにも東照宮がある。修復にあたっては喜多院の当時の住職が世良田の東照宮の改修にも尽力した。塩入住職は、昭和20年8月13日、終戦の2日前、浅草の浅草寺から川越の喜多院に入り、荒れ寺だった喜多院を復興するが、これを昭和の大復興と言う。)

喜多院の七不思議から

川越には古くから、仙芳仙人が、竜神の助けを得て海を干上げ、無量寿寺領を創り上げたという伝説がある。
無量寿寺院の周りは漫々たる海水があったが、そこに仙芳というお坊さんが来て、竜神に少し土地をわけてもらいたいと言ったところ、袈裟ぐらいの大きさならわけてよいということだったのだが、法力により袈裟が広がって海水を除き、仙波の大地ができた、そこに尊像を安置した、という伝説で、円仁による喜多院の創建をこのような形で言い伝えたのだと思われる。

喜多院の本殿は慈恵大師をまつったお堂で「大師堂」とよばれているが、いつのまにか潮音殿と呼ばれるようになった。伝説では縄文時代の昔は海だったから、陸地の先端にあり波の音が聞こえるという意味で 潮音殿というお堂の名付けがされているようだ。お堂の中には、江戸時代に天海僧正が、「潮音殿」と書いた額が、今でも残っている。修行をしている中で、まさに悟りを開いた時、海はすでにないが、太古の海のさざなみが聞き終える、とでもいえようか。

その後、天慶の乱(939年)で、平将門が関東から東北を我が物にしようとするのですが、甥の平貞盛と国司の藤原秀郷(俵藤太)が平将門を滅ぼし関東一円をまた平和をもたらすのだが、その時、喜多院はかなり影響を受けて衰退する。

鎌倉時代になると、源頼朝の子、源頼家の妻は川越太郎重頼の乳母という関係で、その妻の実家が比企一族であった。ところが北条時正が、頼朝の子としては四男、北条政子の子としては次男の源実朝を担いで将軍にしようともくろみ、頼家は追放され、12歳で征夷大将軍に就く。兄の頼家はたった一年だけしか将軍職にはついていない。こんなことがあって良いのかと、比企能員は娘が乳母として育てた頼家のために、実朝をやっつけようと北条時政に刃をむけるのでだが、敗れてしまって殺されてしまう。(元久の乱)。戦いは2年間続き、その時にも喜多院が炎上してしいる。1205年のことである。

(川越の最明寺は5代目北条時頼により後に臨済宗(自力本願・武家のお寺)に改宗されていますが。余談ですが、川越の水上公園のところにある最明寺は北条時頼が作りました。武家は自力本願の臨済宗を信仰いたしました。一般民衆では、自力本願の宗教として曹洞宗を信仰した人が川越には非常に多いです。その北条時頼に川越と全く無縁ではなく、最明寺は北条時頼と源頼家の二男千寿丸の出会いにより創建されたお寺です。観光的は駅から遠いのであまり人がおりません)


しばらく、草茫々の状態が続くが、 永仁4年(1296)伏見天皇の勅命で無量寿寺を中興せよという命令がくだる。無量寿寺を尊海僧正に復興をさせることになった。尊海はその時、都幾川の慈光寺でで修行をしていたが、牛にのって川越に来て、杖をついて礎石を探す。が、なかなか見つからず、夕方になってしまう。また一晩、野宿しようとしたときに、流れ星がパーッと落ちた、その落ちた場所に明星の杉があって、みると無量寿寺の跡の礎石が見つかった、という明星の伝説が残っている。そして無量寿寺を再建して、慈恵大師(元三大師)をお祀りし官田50石を寄せられ関東天台の中心となる。無量寿寺を再建して、最初に作ったのが現在の中院。のちに北院(のちの喜多院)と南院をつくった。

古城の春の花の影
うつる栄枯の諭しあり
明星かかる老杉に
真理に生きよと鐘ひびく
この窓に光をもとめ
我ら立つ 川越一中 (校歌より)

このようにして無量寿は復興したが、戦国の時代、上杉と北条の戦いの時にまた焼けてしまう。川越では
1537年の三ツ木原古戦場での戦いから1546年の川越夜戦まで9年間の上杉と北条氏の争いがあった時代である。
戦国動乱が終わった後、秀吉による天下統一は、1590年天正18年のこと。すなわち豊臣秀吉が徳川家康と前田利家に命じて、小田原を拠点として川越城や江戸城を収めていた北条氏を滅ぼした時である。しかしながら、5代目北条氏直は、家康の娘、督姫(ごうひめ)を正室として迎えている。家康は秀吉の命には従わざるをえなかったので、娘が嫁いでいるにも関わらず、家康は氏直を攻めていまが、北条氏を完全に潰すということを家康はしていません。北条氏を今でいう越後へ移動させまして、喜連川という名前に変えて幕末まで続きます。そういう形で川越は関東、徳川家康の支配下に入ります。

(川越文化コンシェルジュ講座より)

松平信綱と川越

川越城の歴史をお話しようと思います。川越の基礎ができたのは、
松平伊豆守信綱の時代です。信綱の遺産がいろんな形で残って、
現在の川越のまちづくりの基盤が出来上がっています。

まずは町割り。信綱によって形作られた川越の町割は、
松平信綱によって形作られた川越の町割は、「十ヵ町四門前町」。
といられ、近世の模範的な城下町の区割りを完成させたわけです。
東側、北側、南側は、低地と河川で囲まれていて、田植えをする時
に腰あたりまで水に使ってしまうような大変な場所だったのです。
それに対して西側の大地、今の蔵づくりの町の西は、敵から容易に
攻められる可能性があったので、寺を集めておきました。
いかに軍事的に安定した町にするかということを整えたのが信綱なのです。

表玄関である西大手門の前を基点に南方に川越街道が江戸まで伸びた。
西大手門から西へ進む先には高札場である「札の辻」が設けられ、
札の辻を中心とした一帯が城下の商人地区である上五ヶ町で、
その目抜き通りが今の蔵のまちであります。
上五ヶ町に隣接して、職人町の下五ヶ町があった。本丸の周囲には
内堀が張り巡らされ、その南側に武家屋敷が建ち並んだ。家老屋敷などは
大手門周辺に、下級藩士は、川越街道の入口近くの組屋敷に住まわされた。
そのさらに南側は江戸幕府の直営社であった喜多院や仙波東照宮が広大な寺領を
構えました。

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新河岸川舟運を開いたのも松平信綱です。1644年福原の砂久保の開拓、今福、中福が
開拓されてゆき、3年後に舟運がはじまりました。川越の米、畑作物など江戸に
運び出すことによって、そして収益を得るというビジネスモデルをつくりました。

さらに「川越まつり」の基盤をつくったのも松平信綱です。1648年、赤坂山王の神輿2基
と獅子頭、太鼓などの祭礼用具を川越氷川神社に奉納し、江戸の「天下祭」になら
って「 神幸祭(じんこうさい)」を興したのです。川越氷川祭りの山車行事、
いわゆる川越祭りです。川越城下に祭りがないというのはさびしいことだと、
江戸天下まつりの形態をそのまま川越にとりいれ、現在に伝わっています。
東京ではその山車祭りは現在まったく行われていません。川越で伝統を守り伝え
ているのです。

新河岸川舟運を開いたのも松平信綱です。1644年福原の砂久保の開拓、今福、中福が
開拓されてゆき、3年後に舟運がはじまりました。川越の米、畑作物など江戸に
運び出すことによって、そして収益を得るというビジネスモデルをつくりました。

その伊豆守信綱が福原地区を開発できたのは、。一体が武蔵野の原野であったから。
武蔵野というのはすすきが原のことです。
「武蔵野は 月のいるべき山もなし 草よりい出て 草にこそ入れ」
国木田独歩の「武蔵野」という作品で雑木林のイメージが強くなってしまったんですが、
元来はそうではないようです。すすきが原だった。だから開拓が可能だったのです。

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また水の問題。飲料水。東京の江戸時代の飲水は玉川上水の水を江戸の町へ
ひいてそこに共同井戸をつくってくみあげることをはじめたのは信綱です。

徳川家康が江戸城へ入府後、約50年たち江戸の人口増加による飲料水不足が
問題となり、幕府は、1653年に多摩川から水を引く玉川上水を掘る
ことを許可しました。この工事は難工事となり信綱は家臣の安松金右衛門・
小畠助左衛門に補佐を命じ工事を続行させ、1654年に完成しました。

その功績により信綱は、関東ローム層の乾燥した台地のため生活用水に
難渋していた領内の野火止に玉川上水の分水を許可され、1655年に野火止用水が
開通しました。こ

このように江戸から川越の文化的、政治的、軍事的、そういった基盤を完成させた
殿様が伊豆守信綱です。

また箪笥なども。「娘十八かわごえだんす 添へてやりたや振袖に」という、
西条八十の歌がありますが、昔から川越には女の子が生まれると庭に桐の木を植
えるという習慣がありました。その娘が年頃になってお嫁入りするときは、「桐
たんす」を人竿、その木で作れる、そんなような文化をつくったのも信綱です。

江戸と川越を結ぶ舟運の歴史

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現在の蔵の街川越と言われる商都川越ですが、江戸時代、それを支えたのは、舟運です。

ベニスのゴンドラのように、私たちの祖先も、舟で移動したり荷物を運んでいたのですね。

「船は千来る万来る中でわしの待つ船まだ来ない」川越舟歌からの一節です。

徳川幕府3代将軍家光が将軍の時、右腕として活躍した幕府の筆頭家老であった伊豆守信綱が正式に開いたのが1647年。そして、昭和6年、1931年に通船停止命令が出てるまで、285年間、この新河岸川舟運は、続きました。いわゆる正式の川越と江戸東京を結ぶ交通機関として活躍したのです。

しかし、桜でにぎわう、今の北公民館や氷川様の裏、仙波河岸に近いこの写真の場所は船が通っていた訳ではありません。ここから一番近いのが扇河岸で、舟運の終点なのですが、そこから鳥頭坂を上がって、荷物運ぶのに大変なことだったので、引込み船的な役割を仙波河岸が、持っていたんではないかと言われています。

江戸へむかう新河岸川が流れは、現在の和光市の新倉というところで荒川と合流して、蛇行して千住から隅田川に入り、浅草寺のそばにある花川戸橋まで下ってきました。実際には、花川戸からさらに下って、現在の日本橋あたりへ。そこに魚市場があっって、非常に栄えていたのです。3代将軍の頃には日本橋界隈はとても賑やかになってました。伊豆守信綱が、正式に舟運を開いて、285年間、江戸と川越を結んだ船が毎日行き来し、今日の江戸の文化は明日には川越に入ってくるというくらい江戸の文化を川越が取り入れることができたのです。

「舟は出て行く 十六舟が 今度来る日は いつだやら」

5日に1回舟が出たので、十六(いちろく)とは1の日と6の日に舟が出る十六舟。その他に二七舟、三八舟、四九舟、五十舟がありました。舟の値段表には、荷物1台と、人の値段が一緒。また早船という、人を乗せる専用として作った特急のような舟もありました。

その早船では、午後3時に川越新河岸を出たとして、翌日12時に東京荒川沿いに着くと、だいたい22時間ほどかかっていたわけです。夜の船旅なんてロマンチックな風景を想像してしまいそう。その後、明治14年、高崎線が上野から高崎まで開通した時、川越から大宮まであるいは浦和まで歩いて行って、そして汽車に乗って東京に行くという人がだんだん出てきて、人々はほとんど船を使わなくなったそうです。。

その新河岸川舟運を開いたきっかけは、1644年に川越砂久保の開拓が始まり、今福、中福が開拓されていくことのようでもありました。川越の米、畑作物なども江戸に運び出すために運河を開いたようでもあります。さらに農民の人達に、レクレーションの一端として、江戸囃子が広まって現在の川越祭りにつながってゆきました。(川越文化コンシェルジュ講座より)

江戸の雰囲気の残る川越

 

川越の春まつりがはじまりました。
小江戸川越春の舟遊や蔵造りの町並みをいかした江戸の鳶はしご乗り、
川越藩火縄銃鉄砲隊の演武・マーチングバンド・和太鼓・大道芸など、
江戸情緒が感じられる町として春は賑わいをみせています。

江戸東京の下町情緒が消えゆく中で、川越には江戸そのもの、
庶民文化の情緒があふれるところが残っています。先日火事があり
ましたが、菓子屋横丁では、いちばん栄えた時には80件ほど
菓子問屋が並んだといいます。関東大震災のあと東京のお菓子屋さんから
たくさんの注文があって、新河岸川の舟でどんどん運ばれてゆくときも
ありました。

戦争がはじまって一気に衰退してゆき,終戦後、昭和30年代、
まるひろデパートが蔵造りの町並みが駅の方に移って、町並みが
さびれていったいう現実がありました。しかしその後、こんな場所がま
だ川越にあるのかということで、東京の人たちが見学にくるよIMG_4330うになって、
歴史観光都市川越ができ始めていき、現在の活気につながっています。

それでは人気の秘密は何でしょう。それは江戸の雰囲気を残しているからです

 

大河ドラマで有名になった春日の局の化粧の間が残っているのが、
川越の喜多院です。川越は当時の大火があって、喜多院まで焼けて
しまったのですが、その時の喜多院の住職は天海僧正で、徳川家康が
非常に尊敬した方でありました。

家光も自分の父親である秀忠より、おじいさんである家康候を非常に
尊敬していましたので、喜多院が焼けた後、天海のお住まい、坊さんたち
の修行の場をすぐつくる必要があるだろうと、江戸城紅葉山の御殿を解体し、
新河岸川舟運を利用して運び、移築しました。その中に家光候の誕生の
間があります。

家光は生まれて乳母、春日の局に育てられます。本名、福といいますが、
父は明智光秀の筆頭家老の斎藤利三、母は稲葉一鉄の娘ですが、その化粧の
間が喜多院に残っています。

建物は、江戸初期の建物であり、安土桃山期の建築様式を残しています。
今現在、天皇陛下がいらっしゃいます江戸城の紅葉山周辺にしてもこの
時代の建物は残っていないのですがそれが川越にあるのもひとつの魅力と
考えられます。(川越文化コンシェルジュ講座より)

衣:アジアの手仕事の素晴らしさ

スクリーンショット 2016-03-15 9.10.443月24日に久しぶりにコンサートをすることになって、衣装探しをしていたら、出会ってしまったのが、武藤守広さんの沙羅という服。

武藤さんは、養蚕農家に生まれ、幼少時代から馴染みのあった環境を青春時代に訪れたインドのバックパックの旅で思い出して、またアフリカ、東南アジアで手仕事の素晴らしさを目の当たりにし、現在はタイで工房を持っている作家さんです。なんと工房を開く前にタイ語の勉強を本格的にやってタイ語はペラペラという人らしいです。

実は私は衣服というものにコンプレクスがあって、あまり今まで関心がなかったのですが、
はるり銀花の清水雅子さんから、作家のつくるアートのような衣の世界を教えていただき、そうか、衣装・衣服で、考え方や生き方を表現できるのだなと目からウロコでした。

http://www.haruri.jp

今まで衣服というのは、コンプレックスもあり、社会にあわせて自分を表現するものだと思っていました。それがなんとなく窮屈で、服は関心はあるけれど、あまり大切にしていなかったかも。

そんな中、私の音楽も聴いてくださって、その世界を表現するような服、というのをはるり銀花の清水さんからご紹介いただき、あまりに気に入っていただいてしまった一枚の服。
そこから衣(ころも)に興味が湧いてしまいました。清水さんありがとうございました。

新年にやったこと

新年になって一週間になろうとしています。最近は記憶が心配になっていたので
記録で補っていきたいと思います。

炭水化物ダイエットがはやっていますが、実は脳に関していえば、
炭水化物にあるブドウ糖しか栄養にできないので、炭水化物を
とらないことが物忘れの原因にもなるそうです。

炭水化物の中でも多糖類は、植物繊維も豊富にふくまれ、余分な脂質の吸収も
ふせぎます。脳によいとされるゆっくり分解される食品は

パスタ>そば>フランスパン>うどん>白米=食パン>もちの順なのだそうです。

テレビ番組のたけしの健康エンターテイメント!みんなの家庭の医学」からの話でした。

さて、この正月一週間何をしてきたかを書き出してみました。

1月5日
主人の個展の写真どり。午後は高校訪問をし昨年の音楽祭のビデオをいただき
紋蔵庵の社長とお店でばったり。
その後、美術関係者の河田さんの来訪。2月の主人の書の個展にゆいて打ち合わせ。
その後スポーツクラブへゆき夕食。正月がTVを録画でみる。
またローカルバスだ。ほとんどTVをみない我が家だが、
今年は少し家でゆっくりした。

1月4日
朝、食事の用意を早めにして、ホールの近所の家々をまわりご年始に。
いつもご迷惑をかけているかもしれなにので。
その後、キャリアドリームの原稿をつくる。その後、お金の支払い、整理など。
お金のしてみると掃除をしたのと同じくらい頭がすっきりするのはなぜ
だろう。その後、主人のWPにとりかかる。

1月3日
喜多院のお大師様の日なので、ダルマ市にゆく。
その後、懸案の実弟の家へ。なかなか会えない関係なので
決意を持ってマンションに。そして20年ぶりに聞いたその声は!!
詳しい話は別のブログに。とにかく
ほっとした気分だった。

1月2日
正月のおせち料理を食べてから、3日間の行事をする。
この日は主人と喜多院や不動様まで出かけた。あいかわらず人はたくさん。
ローカルバスの旅、地域活性のヒントになりそうだ。
バスのない地域をワゴン車などの車で輸送するサービスを全国にネットしたらどうだろう。
シニアなどを活用して、その地域のコンシェルジェとして発信もしてもらいながら。

1月1日
正月元旦の行事、毎年神棚とこうじん様、仏壇にお供えをして
おせちをいただき、年賀状を良い、新年の誓いを書く。
今年は寺島も一緒に氏神様の八幡様へお参りに。
列が長かったので特別祈願にと彼が言ってくれたものも
気づかずに年賀状の返事を書いていたので、そのまま
1時間近くも並んでしまった。
でも新年の祈りは「感謝」あるのみ。